木葉功一のブログ3’

テキスト倉庫と簡単な日記☆

テレビや映画で暴力を表現し、その作品を鑑賞するのはつねに「いけない」ことなのか?すべての暴力表現がペインボディへのサービスなのか?

キャプチャ

どうして暴力的な映画がこれほど観客を集めるのか?暴力映画は一つの産業を形成していて、その大半は人間の不幸依存症を煽っている。人々がそういう映画を見るのは、嫌な気分になりたいからだろう。人間はなぜ嫌な気分になるのが好きで、それが良いと思うのか?
もちろんペインボディのせいだ。娯楽産業の大部分はペインボディにサービスしている。つまり出来事への反応、ネガティブな思考、個人的なドラマに加えて、映画やテレビを通した追体験によっても、ペインボディは糧を補充している。そういう映画の脚本を書くのも、映画を製作するのも、お金を払ってその映画を見るのもペインボディである。

映画が暴力を大きな全体像のなかで表現するなら、その原因と結果を明らかにし、そのために加害者も被害者もどのような目にあうかを示し、その奥にあって世代から世代へと受け継がれていく集団的無意識を(人間のなかでペインボディとして息づいている怒りと憎悪を)暴露してみせるなら、その映画は人類の目覚めに重要な役割を果たす可能性がある。人類が自分の狂気を映して見る鏡になるだろう。(それが自分自身のものであっても)狂気を狂気と認識するのは正気だし、目覚めだし、狂気の終わりだからである。

そのような映画は存在するし、ペインボディの火に油を注ぐこともない。ペインボディが糧とするのは暴力を普通のこととして、それどころか好ましい人間行動として描いたり、観客のネガティブな感情を刺激するだけの目的で暴力を美化し、痛み依存症のペインボディのための「装置」となる映画なのである。

http://dongavatyo.web.fc2.com/index.htm

下の次元に通路を持つ高次な力というのは、ローカルな性質のど真ん中に降りてくる。

グルジェフ水素表

 二項対立的に分化したところでは、肉体を重要視すると、魂のことは軽視される。また魂を重視する人は肉体を軽視する。中間をつなぐ網が存在すれば、この二つに対立が存在しなくなり、どちらを重視するという意味ではなくなってくる。
 それぞれの物質が、互いの秩序関係と相対的な位置関係を明確に保つことができたら、上から下まで物質は同期を取る。つまりそれぞれの中心に、次の次元が軸として貫通し、この連鎖で、全体がスムーズな回廊になるので、食べたものは天界12に上がり、また反対に女神12は物質界に降りてくる。

 これは物質界から見ると、上位の次元への上昇の道が開かれているとみなされる。どんな低い物質にも、1なるものが宿っていると考えられるようになる。それができないとしたら、特定の物質が、その世界観に閉鎖されていて、真ん中が詰まっていると考えられる。

 そのレベルの水素が持つ、こだわり、感情、考え方にしがみついて離さないのならば、上位の次元の水素は関与できない。もちろんこういう特有の詰まりだけでなく、上位の水素をその人が所有しているかいないか、少なすぎて、想像の三つ組に供与できない場合には、そこは封鎖回路になる。48が24になるためには、12が微量であれ、不可欠だ。

 24はこの社会の中ではエリートで、それは凡庸な48の中で頭ひとつ抜きん出ている。自分の中で24を発見したい人は特技を見つけ出すとよい。48は相対的に他の48に振り回され続けるので、自分の上昇の道を見つけ出せないでいる。他の人の意見というのは、たいてい本人の個性や立場、固有の性質を考慮に入れない一般論である。あるいは主張している人の自分の立場からの発言である。

 本当の意味での自己24を発見するのは、実は一般論の中にあるのではなく、その人の個性的な方向性を発掘することにある。個性は偏っているように見える。他人から見ると違う個性だからだ。しかしこの個性の中心に、普遍的なもの、24や12への登り道がある。つまり一般論的なものの中に普遍的な力は存在せず、その人の個性的なものの中心に、普遍的なものがあると言われると困惑するかもしれない。これこそ、より上の次元の力が下に降りてくることなのである。それぞれの中心には、上位への架け橋の穴があるので、自分の中心に行かなくてはならないのだ。

 それがわからない人は、誰にも共通する普遍的なものが、自己発見の道と勘違いするかもしれない。教育はしばしばそのような型にはまった教え方をする。教育は時には自己発見を妨害する。下の次元に通路を持つ高次な力というのは、ローカルな性質のど真ん中に降りてくる。他の人からヘンだと言われても、意に介さず、その人の中心に向かうことが、階段を発見することにつながる。他の人の意見に振り回されることをやめれば、24への道が見つかる。

 96は不可視なのだが、24は土地や状況に不可視の雰囲気、精霊的な要素を意識的に見出す。つまり形がないものを、あたかも形があるように認識する。48は、実際のモノがないことには認識できないので、何のことを言われているのか、さっぱりわからない。わからないくせに、96に張りつかれて、そこに吸い込まれていく傾向がある。

 24を獲得するというよりも、そこを軸にする必要がある。大量に浴びるほどたくさん持つと、ある日それが重心になる。思考においても感情においても、身体においてもそれを大量に生産する必要がある。食物から採り、空気から採り、印象活動から採る。

 この理性の周囲の固着物とは、48の領域(脳)のこだわりであり、そこから展開した世界の見方にしがみつくことだ。その根底には、おそらく恐れというものが隠れている。恐れに支配された人は、強硬で、頑固だ。固い人は常に恐れている。

 通路ができて24に連結されている96と、迷路で切り離された結果、孤立した96とではまったくのところ意味が違う。例えば96は感情としては狭量で排他的で、自分だけが不幸を背負っていると感じる。しかし12に連結されていると、一時的に不幸と憤りを感じるが、それが開けてくるという変化を体験する。結果的に96の感情は短時間で終わってしまう。食料として食べた直後に消化活動が始まって、96はそこに跡形も残っておらず、新しい12物質がそこでつくられる。96は閉塞感。48は冷静に考える。24では可能性を見つけ出す。

 24が96に君臨するとは、特定の否定的な条件を見ては、次々とそれを直視して、その中に開放の道筋を作り出すことを意味する。無理難題を抱えた状況を即座に、新しいきっかけや展開に利用してしまう。事故が起きても、事故が起きてかえって良かったという結果にしてしまう。否定的なものの中に肯定的で善なるもの、超越的なものを見出すという意味でもある。可能性のないものに新しい打開策や新しい使い道を見つけ出す。

 思考の12とは詩人の言葉か、預言者の言葉のようなものでもあると言ったが、それはわたしたち三次元世界の48の論理性がない。論理性がないのではなく、48での論理では矛盾に見えるようなものを内包するから、48の単調な知性から見ると、理屈に合わないものがたくさんある。48がそれ自身の論理性にこだわると、この12を受け取ることができなくなる。

 激しい性行為は、感情を変質させない。むしろ、男性意識、女性意識というものを再び強めてしまう。男性ならばいわゆる征服欲を満たして、強い男を自覚していくというような性行為をしてしまうと、よけい二極化に投げ出される。谷間のオーガズムというのは、男であったり女であったりすることを通り抜けて、中和的存在になることを意味する。男あるいは女の特性を強めるのは脱線なのだ。

 低いものが高いものを支配する、すなわち思考センター48が、性センター12を支配するという本末転倒が生じると、屈折したことに命をささげるという事態が発生する。軽自動車にジェットエンジンを搭載したようなもので、あっという間にコントロールを失う。

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%92%E5%91%BC%E3%81%B3%E8%BE%BC%E3%82%80-%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E4%BD%93%E3%81%AB%E7%9B%AE%E8%A6%9A%E3%82%81%E3%82%8B%E6%9C%AC-%E6%9D%BE%E6%9D%91-%E6%BD%94/dp/4862041825

【怒り】という感情はあるのですか。

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野獣にしても,その他の動物にしても,人間以外はすべて怒りを欠如している。なぜというに,怒りは理性の敵である一方,理性の入る余地のないところには,どこにも生じないからである
(「怒りについて」 セネカ)

【怒り】という感情が実在するのだろうかという問いです。
人間以外の動物も、例えばテリトリーに侵入されたときや
狙っていた食料を奪われたときや驚いたときなどに
【攻撃】という行動を取ることがありますが、
それは【恐怖】【喪失感】【驚愕】など
怒り以外の他の言葉で説明できるような気がします。
あまり他の動物の気持ちになれなくて悲しいんですが。

それでは人間には【怒り】という感情が本当にあるのでしょうか。
淋しさ・悲哀・口惜しさ・無念さ・蔑み・侮り・やるせなさ・
・もどかしさ・混乱・侮辱・嫌悪・驚き・恐怖・恨(ハン)
など、他の言葉では説明できないのでしょうか。
例えが悪いのですが、被害者の親族は【怒って】いるのですか。

敵対心というのも考えましたが、それは感情というよりも
生き残るために自分と他人を区別する能力で、
細胞の時代からあったのではないかと思われます。
仲間ではないものを食わないと自分たちが生き残れないからです。

ムカつくだとか苛立つだとか立腹するというのは、怒りですか。

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・【怒り】に化けている感情が、氾濫しているのではないか

・引用したセネカの文章をもう一度読むと、【不条理】だとか【理不尽】だと感じるから【怒り】が生じるのだと、書いてあるようにも思えるのですよ。信頼関係がまずあって、相手の間違いによって自分が困るような場合や、相手に尊重されなかった場合のことです。
相手に「間違えました」と言ってもらわなくてはならない場合です。そう思うと、いじめられたら怒らなくてはいけませんね。

・しかし「愛されている猫」というのは、猫以上の扱いも受けず、猫以下の扱いも受けず、猫以上のことを期待されず、豪華なお食事を与えられるのでもなく、あくまで猫であることを完全に認められている猫です。

・怒りは持続するものではなく、何らかのうったえを強く推し進めるときの姿勢や態度のことを象徴的にだけ言っている、のではないか。怒りが持続しているというのは、もし被害を受けたという場合には、そのつぐないがないときの継続的なうったえのことを言うのではないか。

・人間だけ怒りを持つ時間が長すぎると思いませんか。

・「怒りを制御しようと少なからず、心が働く故に、怒りが怒りとして成立するのかもしれません。」

・質問者は精神科医により怒ることを許してもらったおかげで、涙をボタボタと流すことができます。
たぶん許してもらわなくても怒っていいと思うのだけど、変。

・DVをする人間は、しっかりと「計算」して相手を選んでいます。通り魔だって、多くの場合は女子供を狙う事が多いです。心神喪失と言われている人間が、実際には弱い相手ばかりを選ぶ事も珍しく在りません。

・ところでその人たちはなにゆえそこまで自分を放置するんですかね、自分には助けはいらないのだ、自分には助けられる価値がないのだ、と言って。

・>怒りは感情の爆発なので、本当に怒っていれば、その感情に溺れていますが
:溺れている!という言葉はぴったりです。怒ることに集中しきっているときは他になにも聞こえないし感じない。でも何か月も何年もずうっと溺れっぱなしというわけではないのでしょう?他の動物に比べて人間だけ怒っている時間が長すぎませんか。

・弱さは本人が表現しないと他の人には分かりません。大切に隠していると誰も助けてくれなくなってますます弱ります。

・>自己防衛本能に根ざす「心の傷」
:本能なら、傷を長時間放置することはないと思うんですが。
いつまでも「傷つけられた」と言い続けているほうが疲れますし。

他者へのコントロールは、結局は自分のコントロールに繋がるので、どちらにしても苦痛を伴いますから、辛いですよね。

【怒り】という感情はあるのですか。 (1/5) – 哲学 – 教えて!goo

母殺しというのは、魂を奪還することです。

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「母は、子供の人格を認めていない。自分の所有物と思っている。

子供も、まだそこから離れておらず、母が怖いとか、無意識に、そこに依存し託しているものがあるので、自分で考えたり行動できない。考え方がそのまま母のものが転写されている。それに気がつかない。日本全体が母殺しができていない社会というのは、そうです。政治見たらそうだろべ。

母殺しできていない政治家がどのくらいいるのか。日本には、いまもう父親がいない。なので、ラカン式に言う、母と子の癒着を禁止する父の力というものが働かない。父親が子供に対してする態度も、基本的には母コピーである。それで、この母殺しというのは、無意識の領域に深く入り込んでいるので、自覚するのは大変に難しいです。わたしたちは集団基準が正しいものと思って、それを指針にする場合もあるので、すると集団が、母殺しできていない場合には、自分が母殺しできていないということを判断する基準は、どこにも見つからないからです。とくに男性の場合には、死ぬ直前まで自覚できないことは多いです。できたとしても、五十代とか六十代になる。自殺した伊丹十三が、雑誌のインタビューで、自分は五十歳になった今、はじめて母から自立したことがわかると話していたのは、よく覚えています。

で、占星術に限らず、占いというのは、実は母殺しができない人が、母殺しを模索するために走る方策のひとつです。しかしそこで溺れてしまう場合もあります。母ちゃんは何でも早手回しにしてくれた。自分の意志が育つ前に、なんでもしてくれた。というのが続くと、意志がスポイルされます。わたしのところに相談に来るお母さんは、特に母子家庭だと、子供の人生全部決めてしまっています。そのために一生をかけてもいいという決意まで見せてきます。全身全霊で子供に尽くすけど、それは子供の人生を台無しにする可能性は大です。

男の子の場合には、このお母さんの子供に対してのイメージ、『あんたは頭いいんだから』みたいなイメージがあると、それによって自分の自我を作り出し、根拠のない自信を持つことになり、このエンジンで一生走ることも多いのです。仕事の現場で培われた自信でなく、母の容認の言葉で作られる自信というのは、実際の能力を育成しないことはあきらかで、自己像と実像が激しくギャップを持ちます。で、たとえば、わたしの場合にはハイティーンのときに、両親が新築した家で寝ていた時に、いつも、部屋の空気を見ながら、『この空気の密度はすごすぎる。これはプールの中で生きているようなものだ。息ができない。ここでは自分の哲学が生まれない』と思って、まず、そこから距離を持つことを考えました。

この『ここでは自分の哲学は永遠に生まれっこない』という言葉そのものも、いまでもしっかり記憶しています。空気の密度は、母親が作り出したもので、目に見える領域でなく、もっと広範囲に、目に見えない領域に、網が張られています。この力はものすごいのです。子供が勝てるわけありません。それで、時給230円から始まる書店のアルバイトをはじめ、月収三万円になったくらいに、こっそりと、三畳のアパートを借り、はじめは一週間に一日、それから二日、それから三日というふうに、自分の住む拠点を変えてしまったのです。家賃は8500円だったと思うけど、それから月収三万円前後、一日の食べ物は、黒パンだけということも頻繁な貧乏生活が始まりました。

占いの話に戻るけど、自分で意志決定しないでも、母ちゃんは、早手回しになんでもしてくれる、という図式は、こんどは天体とか数霊とかにすりかわり、人間は自分で考えても考えなくても、天体が運命を運んでくれるというふうにシフトします。いいものも悪いものも自動的にやってくる。いいものだけでなく悪いものもやってきます。占いに依存すると、やはり意志は育ちません。

よくある携帯サイトの発想だと、何もしないでも、彼に振り向いてもらえるチャンスはいつ、とか。ある県の男性は、『何にもしなくてもお金が儲かる方法があると思って占いはじめた』と言ってたのを聞いたことがあります。母から逃れるために、男性を見つけて、結婚して、というふうな流れがあるように、あるいは、男性なら、母の影響を奪おうとする女性と結びついたり、というふうに、状況をシフトさせながら、その中で、母の影響から自分を切り分けて自分の自我を形成するという模索が続くとおもうのですが、こうした育成を占い分野に関わることで、達成するには、占いに失望するということが大切です。人と星は違うんだという。これは当たり前の話だけど、母の力から逃れるために占いを利用した人は、こんどは占い殺しをしなくてはならないのは当然です。

何かの分野で、それに失望するという体験を繰り返していない人が、その分野のことについて詳しくなったり、プロになったりすることはありません。失望するというのは、そこで、無意識に一体化しているものが分離します。そうしないと、自分の取り組みの姿勢が作られないのです。飲み込まれている場合、それを扱うことなんてできないじゃないですか。なので、どういうお勉強でも、失望したり、うまく行かなくなってから、はじめてお勉強のスタートですね。

占いでいえば、影響力を認めるが、その可能性と限界を正しく認識すると、自然界という母と、自分の自我の分化が起こるということになります。占いを否定する人の中には、たとえば何でも自分の意志で決められる。人生は自分で作るものという考え方がある人もいると思いますが、これも占い依存の裏返しで、占い依存と変わらないです。なぜといって、現実離れした空想理念に住むことになるからです。(なおかつ、母の力を盗んで成立した。)

人は、狭い範囲の、ある限られた場でだけ自由が許されていて、大部分は植物のように、条件に拘束されています。にもかかわらず、自分の意志でなんでも決められるというのは、前から何度も言うけど、自分以外の周囲の状況とか外界から目をふさいで、自分の殻に閉じこもること、狭い範囲の自由な場にのみ興味を集中させて、そこを過剰に拡大してみることによって、その空想的イメージがあたかも真実であるかのように思うことはできるのです。ものごとに始まりと終わりがあるという考え方は、自分を閉じることで成り立ちます。連続して流れているものも、閉じた自分の世界があると、そこで入ってきて、去っていくことになり、自分中心の世界では、それが始まりと終わりに見えてきます。自主性強調と、文化の鎖国は、二人三脚的に補いあってきたのです。

何かの影響力にいつも飲み込まれているということで言えば、占いしないで、かわりに、社会の条件、集団の条件、近場にある影響力に盲従して、母殺しができていないことと、占い依存は同列です。会社の方針に不満だが、しかし会社が言うのだからしようがない、食えなくなったらおしまいだから、という正当化も、母殺しができていないことの言い訳で、やはり甘えであることは言うまでもないです。母に力を奪われて、人間としての虚脱状態になった人は、集団に従順な人を作ります。この集まりができると、責任の所在を押し付けあう集団になってしまうので、かなり無責任です。意志の所在が自分のところにないために、どこに転んでいくか、誰にもさっぱりわかりません。

占いをする人は、今の社会がもつ集団的な価値観に、異を唱えている人も多いです。そういう反抗的動機で占いをする人。つまり今日の暦に対して違う暦を持ちだすようなものです、太陰暦、天体サイクルによる春分点スタートのリズムとか。反抗目的で、占いをするという動機でスタートした人は、後で、冷静になったら、社会と和解しなくてはならないのですけど。

わたしの思春期の場合は、強い母の力から距離を持ち、対抗材料として、占星術を持ってきた。見える部分でなく、見えないサイキックの部分まで力を及ぼす母の力に対しては、見えないところにまで、むしろそういう部分により強力な力を持つ占星術くらいしか対抗できるものはなかったといえるのかもしれない。それで、具体的にどう解決するのということは考えることではなく、大切なのは、無意識に沈んでいる、この癒着の関係性を、一度、意識化するということができれば、それでかなりの部分がスムーズになるということになります。そうすれば、自分がいかにスポイルされていて、虚脱状態であるか、という現実に気がつくでしょう。

スポイルされている現実に気がつくと、手近なところから、何かしてみるという第一歩が進めやすいとも言えます。わたしの場合、かに座を地層化した基盤というふうに説明していますね。そういう考え方を打ち出したので、母のサイズは階層状です。あとになるほど、より巨大化します。出発点は実在の母ですが、その後、集団社会の母、宇宙の母と続きます。ひとつ片付くと、その後は自動的にというわけには行きません。

それはともかく、自分の意志を打ち出し、その中に、自ら入り込み、森の中に進むみたいに、どんどんと、意志に反応して、新たな現実が展開されていくという、前進することでシーンが変わるドライヴ感は、体験してみると、その面白さが忘れられなくなり、これはバシャール×坂本政道の本での、ワクワクというものと同じですね。母殺しできていない人は、それを体験できてない。

環境も自分も表裏一体で自己を形成しているので、意志を押し出すと、自分の皮がめくれて、違う皮膚があらわれるみたいなものでもあって、この現実に気がつくと、人生はものすごく楽しくなります。

そのかわり、すぐさま、安全装置というか緩衝装置がはずれるので、受動的に生きていると、こんどは環境から入り込まれすぎてしまい、否定的な想念の坩堝みたいになってしまいます。押し出したいじょうは、押し出されるわけですね。押し出していなければ、そういう体験はしなかった。何かちょっとした眠りの安全装置を取り外してしまった。でも前進です。押すと反応する、これはすごい、という体験をするためには、自分の意志を押し出し、はじめはそれに環境は応じないが、途中で折れずに、そのまま押し続けると、ある段階で、環境のほうが態度を変えてくるシーンを実際に体験する必要があると思います。変えてくる瞬間、それを奇跡のように感じる。調停点と安息を得るためには、ダスカロスの言うノエティックの領域を発見しなくてはならないけどね。

無明庵は、現代人は、魂が希釈されていて、単独の魂を持つ人間はほとんどいないというようなことを言ってる。それは当たり前。グルジェフだともっと極端で、道を歩いている人々を指差して、ウスペンスキーに、ほら、あそことあそこのあれは魂がない、と言ったりしていたらしい。希釈ではなく、不在。この場合、人間存在というよりも、残像といいます。ホログラフなんだから、残像です。母殺しというのは、魂を奪還することです。父殺しは?と質問する人がいるかもしれないけど、これ入れ子構造なので、別の話をしているわけではないです」

(占星術研究家・松村潔氏の雑記より)

http://www.tora.ne.jp/

 

われわれの本質は馬である

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外面と内面の配慮・・・
人間は異質な二つの部分を持っている。本質と人格である。
本質は、私である。本質は遺伝、類型、性格、天性である。
人格は偶然に得るもの・・・育ち、教育、視点であり、外側のものである。

御者の例を思い出してほしい。われわれの本質はである。が(機械的に呼び起こすだけの)考慮をすべきではない。しかし、たとえあなたがそのことに気づいても、はあなたの言葉を理解しないから、は気づかない。に命令したり、教えたり、考慮しないようにとか、反応しないようにとか、応じないようにと伝えることはできない。
あなたの知性(マインド)は考慮しないことを望むが、まず初めに、の言葉と心理を学び、に話しかけることを学ぶ必要がある。そうすれば、知性、論理の望むようにできるであろう。しかし、今、に教えようとしても、百年たっても何も教えることも、変えることもできない。空虚な願望である。・・・
ぐいと手綱を引けばはあちこちに動くであろうが、それもいつもではなく、満腹のときだけである。に何かを話し始めれば、は尾で蠅を追い払い続けるであろうが、あなたは、が理解したのだと空想するであろう。

われわれの天性が損なわれる前は、御者主人の四者が一つのチームとして一体だった。
すべての部分が共通の理解を持ち、みな一緒に同時に動き、休み、食事をした。ところが言葉が忘れられ、部分が別々になり、他の部分と離れて暮らすようになった。

グルジェフ-3 馬車