木葉功一のブログ

~テキスト倉庫と日記~

人殺しは悪。しかし牛を殺すのは悪とみなされない。

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特定の次元において、ひずみ、病、強い癖とみなされる特徴があるとします。何を基準にして、そのように判断するのかというと、この特定の次元の意義を決めている領域においての、秩序のロゴスからみて、それらは自分自身の秩序を乱してしまうと見なされる場合、それは病気、ひずみ、そして悪です。人殺しは悪。しかし牛を殺すことは悪と見なされないというように、特定の基準からみての相対的な価値判断です。ひずみや癖と、個性はどう区別されるものなのか。ひずみは悪であり、個性は善です。この場合に、後者は、より上位の影響力と動機が取れるということが大きな特徴です。それはむしろ源流との結びつきがより深くなるような特徴だといえるでしょう。一方でひずみや癖というものは、その源流との結びつきが弱くなっていき孤立して、活力の供給が失われていた状態だとみなされます。この地球というものは、宇宙の中の僻地であって、犯罪者の集まりであり、正当な人間は一人もいないとみなしてもいいのですが、ところがここで開発されたものが偶然の産物ではなく、打ち捨てられることなく、より上位の領域に持ち込むことが可能なものであったとしたら、それは上位の意識の新しい可能性を開くことになってきます。くだらないものを、くだらないものでないように、浸透することができればいいという話。浸透する意識は、より上位の振動密度を持っていればいいというわけです。そうすれば、それは妙は癖ではなく、むしろ同期のためのきっかけにさえなる。

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「日本の教育制度は子供たちの知識を広げるためにはデザインされていなかった。訓練することが重要なことであって、学びや知的成長は求められていなかった」

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SEETELL 日本の教育制度を変えるのは複雑すぎる パート1:プロイセン型教育制度

 

最近日本の教育制度についてよく語られる。 日本の企業経営者は教育制度からはグローバルな環境に適合するモチベーションや能力をもった従業員がいないと言う。 この苦情は非常に皮肉である。というのが教育制度の原点がそういうことだからだ。

日本の教育制度は古典的な意味で、日本の子供たちの知識を広げるためにはデザインされていなかった。その代わり、明治初期に成長を始めた産業では手際よくおとなしい従業員と、新しい社会制度のエリート予備軍としての権力の下で従順に働く人材が必要だった。  訓練することが重要なことであって、学びや知的成長は求められていなかった。

1868年の明治維新後、日本を強く近代的な国にするために西洋式学習方法と制度が取り入れられた。友好親善が目的であったが、海外の文明 は思想を調査するために政府首脳陣や留学生を含む岩倉使節団が海外へ送り出された。 お雇い外国人と呼ばれた外国人学者は新しく設立された大学や士官学校で教鞭をとるために招聘された。 主にプロイセン型の義務教育が紹介された。

プロイセン型教育制度をみてみよう。ナポレオンの素人軍隊が1806年のイエナの戦いでプロイセンのプロの軍勢を征した1年後、ドイツの哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは有名な講演『ドイツ国民に告ぐ』を行った。この講演で、彼はプロイセンの大衆にプロセインがこの最も不名誉な敗北から立ち直るには、強制的な教育で命令に従うことを教えることが唯一の方法だと言った。

近代の義務教育は1819年にプロイセンで、人類の歴史で初めて教育が国全体に強制された。 ゴールはシンプルだった:軍隊の従順な兵士、従属的な探鉱夫、政府に従順に従う公務員、おとなしい会社員、そして大きな問題に対して同じ考えをもつ市民。 結果は言うまでもなくプロセインの支配階級のエリートたちに受けが良かった。そして産業は栄え、戦争には強くなった。

プロセインでは、国民学校が92%の子供を教育した。 その目的は、知性の向上ではなく、子供たちに社会での服従と従属を教えることだった。 たった8%の子供たちが数学、自然科学、外国語などを中心としたレアルシューレに進学した。大衆が知的発育をすると戦いに負ける原因を作るとされた。

そしてまだある。ドイツが統一国家として現れたとき、プロイセン型学校制度は拡大された。1917年にフランツ・ド・ホブレは以下のように書いている:

ドイツ教育の一番の基本は国家の方針に基づいていることである・・・・・。 ドイツ教育の基本的特徴: 国家への教育、国家のための教育、国家による教育。 国民学校は国家統一の概念の直接的な結果である。 国家は目に見えるものの最上位にある。

1910年にエルンスト・トレルチは明白なことを指摘した: 「学校組織は軍隊組織と並列であり、公立学校は民間の軍隊である。」 ドイツの哲学者 ヨハン・フィヒテ はドイツの学校制度構築の主たる貢献者だった。 学校は「人を作らねばならない、そしてその人が国家の望む通りの意思決定だけをするように作らねばならない」と言ったのはフィヒテ出会った。 重要なのは、アメリカの義務教育の提唱者たちはプロセインの制度を見てとても気に入りその方式を取り入れたことだ。元教師の ジョン・テイラー・ガットー が書いている通り:

少数の非常に情熱的なアメリカの思想家がプロセインを19世紀に訪問している。彼らは教育制度の秩序、服従、効率の良さに感動して、それからは休むことなくプロセイン型のやり方をアメリカに導入しようと啓蒙活動をした。プロセインの最終的なゴールは、ドイツ統一であった。一方アメリカ人のゴールは移民のカトリック信者の群れをひとつにまとめて北ヨーロッパ文化モデルに基づいたアメリカの国家的考え方の型にはめることだった。 それを達成するには、子供は親から引き離して望ましくない文化の影響を受けないようにすることだった。

ガットーはプロセインのモデルがいかに現在に至る教育制度の基準を定めたかを強調している。 「制度全体は教師によって与えられる直接の情報と抽象的情報の破砕こそが従順で従属的な卒業生、任意次数に適切な敬意を払うという前提の上に構築された」と彼は書いている。彼は、アメリカの教育者はプロセインから三つの大きなアイデアを輸入したと言う。

第一番目は、国家による学校教育は知的なトレーニングではなく「従順であること、従属的であること、集団生活に慣れること」に子供を調教することである。これによって、暗記は考えることより重要となった。

第二番目は、全体のアイデアを破砕して「科目」に分け、学校の一日は決まった時限数に分けられた。「絶え間ない中断を設けることで、学びの自己発心は無言のうちに消えていく」仕組みだ。

第三番目は、国家は子供の真の親であると仮定された。 ガットーは、「どの理論も子供の学習の仕方やどの学習が最も価値があるかは正確には言えない」と言っているが、これらすべてのことは教育への科学的アプローチとして行われた。

プロセイン型教育を理解するために、新しい取り組みを見てみよう:幼稚園。 1840年にフリードリッヒ・フレーベルは、子供の社会性を養うために最初の幼稚園をドイツに開設した。 「名前の通り、キンダー(子供の)ガーテン(庭)として、子供を植物のように育てると場所として幼稚園は考えられた」とスプリングは書いている。

明治の日本はというと、ペリーの黒船到来以来二つの大きな改革を遂げた。一つは開国であり、もう一つは明治維新だ。当時のリーダーにとってプロセイ ン型の教育は大衆を型にはめ、経済と軍事振興のために必要な訓練をするのに役立った。 短期的には目的を果たしたが、長期的にはこの方法の弱点も多い。

現状に至るまでの最も顕著な欠点は、太平洋戦争まで軍隊が教育を支配したことだった。それによって若者は戦争をすることと国土拡大計画を完全に教え 込まれたのだ。 そのせいで、多くの日本人の命が間違った戦争で失われた。 また、アメリカ式プロセイン型教育を敗戦したばかりの当時の日本に持ってきて 不当な影響を与えた。 当時本当の意味の教育改革をすることはもっと易しかったはずだ。

今日、硬直した官僚制度(これも残念ながら同じ教育制度で訓練されてきた)を支える教育制度は複合的な機能不全であり、グローバルな企業が必要とす る訓練は提供できていない。 結果として、どこにも適合できていない人が多くいる世代が出来上がってしまった。 特に18~34歳の人々にとって、教育制度で受けた訓練は、今の世の中 で彼ら全員を支えてくれなくなっている。

社会問題は教育制度の機能低下の証拠である。 自殺者数は上昇している。 出生率は低下している。労働人口の40%は職がないか、パート労働者である(多くの人は複数のパートの仕事を掛け持ちしている)。 家族の文化が衰退している。多くの家庭では夫婦共に働き、子供のケアを通して子供が日々接する権威は政府である(そういう意味では、プロセイン型教育制度 は成功を収めている)。

18~34歳の世代はモチベーションの低さを指摘されている。 事実は、従業員の仕事をする能力と従順さを訓練するのが目的の教育制度は、この世代に対して現在の経済社会的衰退の環境を生き抜くための準備はしてこな かった。 この世代の創造性、革新性、そして自信を育むことは教育制度の目的には含まれておらず、現在の社会制度もこの世代全員をサポート出来るわけでは ない。日本の新しいバイタリティーを作る鍵であるところの、これまでの訓練の殻を破って自分の道を切り開き世界に出ていく若者の数はそう多くはない。

我々は、日本の教育制度が抱える問題をシリーズで記事にしていく努力をする。なぜならば、日本の将来は多くの機関と制度の大幅な改革にかかってお り、教育も例外ではないからだ。 子供の教育が百年以上続いている同じ方法で続けられている限りは、国の改革は不可能である。 より自然な社会の進化が根付くには、追従はなくさねばならな い。個人と家族は国家より重要であるべきだ。そこでは革新と競争の原理が働き、変化があることが国家の普通の状態になり、子供は大きな機械の使い捨ての部 品ではなく現状維持を打開する機会を与えられているべきなのだ。

http://web.archive.org/web/20140421173905/http://seetell.jp/24802

テレビや映画で暴力を表現し、その作品を鑑賞するのはつねに「いけない」ことなのか?すべての暴力表現がペインボディへのサービスなのか?

キャプチャ

どうして暴力的な映画がこれほど観客を集めるのか?暴力映画は一つの産業を形成していて、その大半は人間の不幸依存症を煽っている。人々がそういう映画を見るのは、嫌な気分になりたいからだろう。人間はなぜ嫌な気分になるのが好きで、それが良いと思うのか?
もちろんペインボディのせいだ。娯楽産業の大部分はペインボディにサービスしている。つまり出来事への反応、ネガティブな思考、個人的なドラマに加えて、映画やテレビを通した追体験によっても、ペインボディは糧を補充している。そういう映画の脚本を書くのも、映画を製作するのも、お金を払ってその映画を見るのもペインボディである。

映画が暴力を大きな全体像のなかで表現するなら、その原因と結果を明らかにし、そのために加害者も被害者もどのような目にあうかを示し、その奥にあって世代から世代へと受け継がれていく集団的無意識を(人間のなかでペインボディとして息づいている怒りと憎悪を)暴露してみせるなら、その映画は人類の目覚めに重要な役割を果たす可能性がある。人類が自分の狂気を映して見る鏡になるだろう。(それが自分自身のものであっても)狂気を狂気と認識するのは正気だし、目覚めだし、狂気の終わりだからである。

そのような映画は存在するし、ペインボディの火に油を注ぐこともない。ペインボディが糧とするのは暴力を普通のこととして、それどころか好ましい人間行動として描いたり、観客のネガティブな感情を刺激するだけの目的で暴力を美化し、痛み依存症のペインボディのための「装置」となる映画なのである。

http://dongavatyo.web.fc2.com/index.htm

下の次元に通路を持つ高次な力というのは、ローカルな性質のど真ん中に降りてくる。

グルジェフ水素表

 二項対立的に分化したところでは、肉体を重要視すると、魂のことは軽視される。また魂を重視する人は肉体を軽視する。中間をつなぐ網が存在すれば、この二つに対立が存在しなくなり、どちらを重視するという意味ではなくなってくる。
 それぞれの物質が、互いの秩序関係と相対的な位置関係を明確に保つことができたら、上から下まで物質は同期を取る。つまりそれぞれの中心に、次の次元が軸として貫通し、この連鎖で、全体がスムーズな回廊になるので、食べたものは天界12に上がり、また反対に女神12は物質界に降りてくる。

 これは物質界から見ると、上位の次元への上昇の道が開かれているとみなされる。どんな低い物質にも、1なるものが宿っていると考えられるようになる。それができないとしたら、特定の物質が、その世界観に閉鎖されていて、真ん中が詰まっていると考えられる。

 そのレベルの水素が持つ、こだわり、感情、考え方にしがみついて離さないのならば、上位の次元の水素は関与できない。もちろんこういう特有の詰まりだけでなく、上位の水素をその人が所有しているかいないか、少なすぎて、想像の三つ組に供与できない場合には、そこは封鎖回路になる。48が24になるためには、12が微量であれ、不可欠だ。

 24はこの社会の中ではエリートで、それは凡庸な48の中で頭ひとつ抜きん出ている。自分の中で24を発見したい人は特技を見つけ出すとよい。48は相対的に他の48に振り回され続けるので、自分の上昇の道を見つけ出せないでいる。他の人の意見というのは、たいてい本人の個性や立場、固有の性質を考慮に入れない一般論である。あるいは主張している人の自分の立場からの発言である。

 本当の意味での自己24を発見するのは、実は一般論の中にあるのではなく、その人の個性的な方向性を発掘することにある。個性は偏っているように見える。他人から見ると違う個性だからだ。しかしこの個性の中心に、普遍的なもの、24や12への登り道がある。つまり一般論的なものの中に普遍的な力は存在せず、その人の個性的なものの中心に、普遍的なものがあると言われると困惑するかもしれない。これこそ、より上の次元の力が下に降りてくることなのである。それぞれの中心には、上位への架け橋の穴があるので、自分の中心に行かなくてはならないのだ。

 それがわからない人は、誰にも共通する普遍的なものが、自己発見の道と勘違いするかもしれない。教育はしばしばそのような型にはまった教え方をする。教育は時には自己発見を妨害する。下の次元に通路を持つ高次な力というのは、ローカルな性質のど真ん中に降りてくる。他の人からヘンだと言われても、意に介さず、その人の中心に向かうことが、階段を発見することにつながる。他の人の意見に振り回されることをやめれば、24への道が見つかる。

 96は不可視なのだが、24は土地や状況に不可視の雰囲気、精霊的な要素を意識的に見出す。つまり形がないものを、あたかも形があるように認識する。48は、実際のモノがないことには認識できないので、何のことを言われているのか、さっぱりわからない。わからないくせに、96に張りつかれて、そこに吸い込まれていく傾向がある。

 24を獲得するというよりも、そこを軸にする必要がある。大量に浴びるほどたくさん持つと、ある日それが重心になる。思考においても感情においても、身体においてもそれを大量に生産する必要がある。食物から採り、空気から採り、印象活動から採る。

 この理性の周囲の固着物とは、48の領域(脳)のこだわりであり、そこから展開した世界の見方にしがみつくことだ。その根底には、おそらく恐れというものが隠れている。恐れに支配された人は、強硬で、頑固だ。固い人は常に恐れている。

 通路ができて24に連結されている96と、迷路で切り離された結果、孤立した96とではまったくのところ意味が違う。例えば96は感情としては狭量で排他的で、自分だけが不幸を背負っていると感じる。しかし12に連結されていると、一時的に不幸と憤りを感じるが、それが開けてくるという変化を体験する。結果的に96の感情は短時間で終わってしまう。食料として食べた直後に消化活動が始まって、96はそこに跡形も残っておらず、新しい12物質がそこでつくられる。96は閉塞感。48は冷静に考える。24では可能性を見つけ出す。

 24が96に君臨するとは、特定の否定的な条件を見ては、次々とそれを直視して、その中に開放の道筋を作り出すことを意味する。無理難題を抱えた状況を即座に、新しいきっかけや展開に利用してしまう。事故が起きても、事故が起きてかえって良かったという結果にしてしまう。否定的なものの中に肯定的で善なるもの、超越的なものを見出すという意味でもある。可能性のないものに新しい打開策や新しい使い道を見つけ出す。

 思考の12とは詩人の言葉か、預言者の言葉のようなものでもあると言ったが、それはわたしたち三次元世界の48の論理性がない。論理性がないのではなく、48での論理では矛盾に見えるようなものを内包するから、48の単調な知性から見ると、理屈に合わないものがたくさんある。48がそれ自身の論理性にこだわると、この12を受け取ることができなくなる。

 激しい性行為は、感情を変質させない。むしろ、男性意識、女性意識というものを再び強めてしまう。男性ならばいわゆる征服欲を満たして、強い男を自覚していくというような性行為をしてしまうと、よけい二極化に投げ出される。谷間のオーガズムというのは、男であったり女であったりすることを通り抜けて、中和的存在になることを意味する。男あるいは女の特性を強めるのは脱線なのだ。

 低いものが高いものを支配する、すなわち思考センター48が、性センター12を支配するという本末転倒が生じると、屈折したことに命をささげるという事態が発生する。軽自動車にジェットエンジンを搭載したようなもので、あっという間にコントロールを失う。

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【怒り】という感情はあるのですか。

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野獣にしても,その他の動物にしても,人間以外はすべて怒りを欠如している。なぜというに,怒りは理性の敵である一方,理性の入る余地のないところには,どこにも生じないからである
(「怒りについて」 セネカ)

【怒り】という感情が実在するのだろうかという問いです。
人間以外の動物も、例えばテリトリーに侵入されたときや
狙っていた食料を奪われたときや驚いたときなどに
【攻撃】という行動を取ることがありますが、
それは【恐怖】【喪失感】【驚愕】など
怒り以外の他の言葉で説明できるような気がします。
あまり他の動物の気持ちになれなくて悲しいんですが。

それでは人間には【怒り】という感情が本当にあるのでしょうか。
淋しさ・悲哀・口惜しさ・無念さ・蔑み・侮り・やるせなさ・
・もどかしさ・混乱・侮辱・嫌悪・驚き・恐怖・恨(ハン)
など、他の言葉では説明できないのでしょうか。
例えが悪いのですが、被害者の親族は【怒って】いるのですか。

敵対心というのも考えましたが、それは感情というよりも
生き残るために自分と他人を区別する能力で、
細胞の時代からあったのではないかと思われます。
仲間ではないものを食わないと自分たちが生き残れないからです。

ムカつくだとか苛立つだとか立腹するというのは、怒りですか。

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・【怒り】に化けている感情が、氾濫しているのではないか

・引用したセネカの文章をもう一度読むと、【不条理】だとか【理不尽】だと感じるから【怒り】が生じるのだと、書いてあるようにも思えるのですよ。信頼関係がまずあって、相手の間違いによって自分が困るような場合や、相手に尊重されなかった場合のことです。
相手に「間違えました」と言ってもらわなくてはならない場合です。そう思うと、いじめられたら怒らなくてはいけませんね。

・しかし「愛されている猫」というのは、猫以上の扱いも受けず、猫以下の扱いも受けず、猫以上のことを期待されず、豪華なお食事を与えられるのでもなく、あくまで猫であることを完全に認められている猫です。

・怒りは持続するものではなく、何らかのうったえを強く推し進めるときの姿勢や態度のことを象徴的にだけ言っている、のではないか。怒りが持続しているというのは、もし被害を受けたという場合には、そのつぐないがないときの継続的なうったえのことを言うのではないか。

・人間だけ怒りを持つ時間が長すぎると思いませんか。

・「怒りを制御しようと少なからず、心が働く故に、怒りが怒りとして成立するのかもしれません。」

・質問者は精神科医により怒ることを許してもらったおかげで、涙をボタボタと流すことができます。
たぶん許してもらわなくても怒っていいと思うのだけど、変。

・DVをする人間は、しっかりと「計算」して相手を選んでいます。通り魔だって、多くの場合は女子供を狙う事が多いです。心神喪失と言われている人間が、実際には弱い相手ばかりを選ぶ事も珍しく在りません。

・ところでその人たちはなにゆえそこまで自分を放置するんですかね、自分には助けはいらないのだ、自分には助けられる価値がないのだ、と言って。

・>怒りは感情の爆発なので、本当に怒っていれば、その感情に溺れていますが
:溺れている!という言葉はぴったりです。怒ることに集中しきっているときは他になにも聞こえないし感じない。でも何か月も何年もずうっと溺れっぱなしというわけではないのでしょう?他の動物に比べて人間だけ怒っている時間が長すぎませんか。

・弱さは本人が表現しないと他の人には分かりません。大切に隠していると誰も助けてくれなくなってますます弱ります。

・>自己防衛本能に根ざす「心の傷」
:本能なら、傷を長時間放置することはないと思うんですが。
いつまでも「傷つけられた」と言い続けているほうが疲れますし。

他者へのコントロールは、結局は自分のコントロールに繋がるので、どちらにしても苦痛を伴いますから、辛いですよね。

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