Kのブログ

~テキスト倉庫と日記~

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「自分自身に対して心理学者であろうとすると、性格という現実の刻印のかわりに、心理という抽象的なメカニズムが現れる」

性格論の元祖テオフラストスが、人間の性格を論じようとするにあたって、好んで自分を信じられないという自己韜晦術の達人を論難することから始めているのは、きわめて正しいやり方であった。

自分自身に対して心理学者であることに慣れた人々は、自分で自分が信じられぬというセリフを好んで使う。彼らは自己韜晦(とうかい)が目的なのではない。無論どんな種類の達人でもない。ただ高級な意識の持ち主には性格を紛失する特権があると思い込んでいる、神経質な怠け者にすぎない。

自分自身に対して心理学者であろうとすると、性格という現実の刻印のかわりに、心理という抽象的なメカニズムが現れる。
自分自身に対して、心理学者であるよりも、俳優であろうとすることの方が、遥かに人間らしいことである。そうすることで、性格の問題は、人間の実践的な倫理問題として現れてくるし、そうなる他はない。

テオクラストスが捕らえたのは、実際的で利己的な目的、つまり自分個人の都合のために、他人をごまかして世を渡ろうと決心した悪漢であって、善悪の彼岸に心理のメカニズムを織る孤独な人間ではない。二人とも同じセリフを使う、自分で自分が信じられない、と。しかし前者のセリフはあくまで俳優のセリフであり、その効果はあらかじめ計算ずみとはいえ、実際に他人の上に試みてみなければ安心できるものではないが、後者のセリフは、他人を締め出した上での独白にすぎない。見かけだけが似ている。

自分としては自分のやることに自信を持っていればたくさんだ。貴方が心配するほど骨の折れる仕事じゃない。人間には、みんな俳優の才能が備わっているからね。人は騙したいものだし、また人から騙されたいものだ。要するに性格というものは、ごく手軽に安直に扱っておいた方が、日常生活には便利だね。クソ真面目に扱おうとすると自己反省という空しい遊びをやり出すようになる。

(小林秀雄全集 10 ゴッホ)

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「満足しているサイは、自分が絶滅を待つ数少ない生き残りだからといって、その満足感に水を差されるわけではない。そして、牛という種の数の上での成功は、個々の牛が味わう苦しみにとっては、何の慰めにもならない」

ヒツジ飼いでなくヒツジたちの視点に立てば、家畜化された動物の大多数にとって、農業革命は恐ろしい大参事だったという印象は免れない。彼らの進化上の「成功」は無意味だ。絶滅の瀬戸際にある珍しい野生のサイのほうが、肉汁たっぷりのステーキを人間が得るために小さな箱に押し込められ、太らされて短い生涯を終える牛よりも、おそらく満足しているだろう。満足しているサイは、自分が絶滅を待つ数少ない生き残りだからといって、その満足感に水を差されるわけではない。そして、牛という種の数の上での成功は、個々の牛が味わう苦しみにとっては、何の慰めにもならない。

進化上の成功と個々の苦しみというこの乖離は、私たちが農業革命から引き出しうる教訓のうちで最も重要かもしれない。小麦やトウモロコシといった植物の物語(ナラティブ)を検討する際には、純粋な進化の視点に立つことは理に適っているかもしれない。だが、それぞれが感覚や感情の複雑な世界を持つ牛やヒツジ、サピエンスといった動物の場合には、進化上の成功が個体の経験にどのように結びつくかを考えなくてはならない。サピエンスの集合的な力の劇的な増加と、表向きの成功が、個体の多大な苦しみと密接につながっていたことを、私たちは今後の章で繰り返し目にすることになるだろう。

 

「作品を観たり作ったりしてチャージされたと感じているとき、俺達は自分の中を流れるエネルギーに触れている」

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10代20代の頃、未来のように感じていたのはあの時そのものだったことが、50代になった今よくわかる。経験を整理して記憶化するため、過去や未来という時間の感覚を、俺達の脳は作り出してる。人間の内側外側問わずで存在している時間は「今」だけ。流れていくのは肉体の方だ。

ということを、ある作品のEDを見て、涙が出るほど強烈に感じた。流れ去っていく肉体の世界で肉体の外にある「今」を再現し、「世界が流れているのではなく人間が流れ去っていく。俺達はエネルギーの流れなのだ」と、自分や他人に確かめることが作品作りの動機であり目的なんだ。

作品は流れの中に固定された「裂け目」だ。「裂け目」を入れたり「裂け目」の向こう側を眺めたりすることで、俺達は肉体という流れの外側にある「今」の存在を確かめている。

流れのない「今」は鏡になる。鏡には流れている自分が映る。エネルギーとして流れ去る自分を鏡に映して観ることにより、俺達は自分が生きていることを驚きを持って認識する。作品を観たり作ったりしてチャージされたと感じているとき、俺達は自分の中を流れるエネルギーに触れているんだ。

(あるいは川の流れに手を入れてる感じ。作品は作者が流れの中に作って残した「手の鋳型」だ。鑑賞者はその鋳型の中に自分の手を入れることで、作者が感じた命の流れを自分の感度で再現する。)

作品からエネルギーをもらっていると思っていたけど、そうではなかった。自分のエネルギーの流れに触れて、自分のエネルギーを汲み上げていたんだ。良い作品に触れるとそのようになるのは、作者が自分に「裂け目」を作ってエネルギーの流れに手を入れているから。

作品作りって「自分にどんな裂け目を入れるか」「裂いた断面をどう磨くか」だ。作者も鑑賞者も内側には同じエネルギーが流れてる。作者は幼少期に親や環境から裂かれた経験の副産物として、自分の中を流れるエネルギーに触れた経験を持っている。知っているから自分を裂ける。その一点が鑑賞者と違う。

作品に触れることで鑑賞者は、作者が自分を裂いた裂き方をなぞって自分のエネルギーに触れる。良い作品=鮮やかな裂け目=鏡に出逢うと、その瞬間に俺達はもう自分自身に触れている。それを遅れて理解した理性が震えることで感動するのだ。

「日本人は人間の都合が神の都合よりも大事」


小室「仏教でも儒教でも、日本に宗教が入ってくるとすべて戒律が抜けて『日本教』になる」
橋爪「本質が抜けるのであれば、付け加わるものはないのか。『日本教』の中味というものは一体何か」
小室「役人が宗教を作る。ありうべからざる作り方をする」
橋爪「役人は現実の問題を処理する人達。そういう人達の都合が優先されて、宗教の論理は二の次三の次になってしまうが、日本人はみんな『それでいい』と思っていると」
小室「そう」
橋爪「それは宗教とは違ったものですね」
小室「非常に違う。儒教は中国では宗教だけど日本では道徳の一種になる」

橋爪「仏教だったら一番大事なものがこの世の真理とそれを知る悟り、儒教であれば政治制度やそれを通じて人民の幸せを実現すること、そういう大事な事柄の順番がある。でも日本に入ってくると、そういう本質的なことが二の次三の次にされてしまうのは、それよりもっと大事なことがあるためでは。何が一番大事だと役人なり日本人は考えているのか」
小室「日本の、国民の、好みが大事。人間そのものに対する好み」
橋爪「日本に暮らしている日本人が、日本人として暮らしていることが一番大事、ということか?」
小室「簡単に言えばそう。キリスト教徒は人間よりも神の方がはるかに大事だと考える。日本人は人間の都合が神の都合よりも大事」
アナ「日本には神様というものが無くて、私達(人間)が一番大事、ということなのか?」
小室「そう」
橋爪「日本には神様もたくさんいるし仏さまも拝まれている。それと人間(の都合)が一番大事だと考えることはどうつながるのか」
小室「一神教(の世界)では、神が人間より先に存在して、神だけが本当に生きていて、人間は神が作ったものにすぎない。日本では神様はすべて人間の都合。それが日本教の特徴」
橋爪「神様が人間に命令したり指図することはできないし好ましくない、むしろ人間が神様に命令したり指図することができれば一番良いと」
小室「結論としては。仏様でも同様」

橋爪「日本人と言えども仲間を大切だとは思うが、現実には欲張りもいるしケチもいるし権力の亡者もいるし色々と欠陥のある人間がいて、そういった人達をあるがままのに大事だとは思いにくい。だからこそ、どこかに神や仏がいる(いてほしい)と考えるのが筋なのに、どうして日本人の場合は神や仏を大事と思わないで、人間を大事と思うのか」
小室「神とか仏と言っても、その行き着く果てには人間がいて、人間のためになり、人間のために存在している。本来の(日本の外にある)神や仏はそうではない、ということが日本人には理解できない」
橋爪「キリスト教が来る前、仏教が来る前から、日本人はそう考えてきたし、そのようにしか考えられない、ということか?」
小室「そう。そしてそのことを(自分達で)理解するのも大変」
橋爪「仏教の国だとか、神道の国だとか、クリスチャンもそれなりにいるではないかと、私達は自分達を外側から見てしまうけど、中味は実は違っていると」

アナ「日本教の場合、どんな行動パターンがあるのか」
小室「行動を作りえない、『このように行動しなさい』というのが無いところが、日本教のパターンの特徴」
橋爪「…それでは何にも(何者にも)なれないのでは?」
小室「そう。ならない。だから最も宗教らしいイスラム教も日本に入ってきていない(来ても根付いた形跡がない)。イスラム教は行動パターンがきちんと決まっていて、日本の西行法師みたいに『なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる』なんてことはありえない。イスラム教と日本教は正反対で対立的」
橋爪「日本人は、何を信じているかというと、『特に何か大事なものがあってそれに比べて自分が価値がない』と思うのは大嫌いで、『色んなものがあるけれども自分の役に立てばいいや』と。偉そうな人にああだこうだ言われて、自分をそれに当てはめていくのは嫌だと、頑なに信じている」
小室「結論的にはそうなる(無意識にそうしている)。だから中国と比べても日本には孔子みたいにきちんと固まった『聖人』は出ない」

橋爪「ヨーロッパの社会は苦労に苦労を重ねて、宗教と国家を分離し、宗教を近代化し、国家を近代化した。やっと人間が勤勉に合理的に行動できるようになった。ところが日本人の場合、そういうプロセスを踏まないのに、何故か勤勉に働く。それで山本七平さんは頭をひねって『日本教』という考えを出した。日本人が勤勉に働く理由は何なのか」
小室「日本の神話では主神からして勤勉に働く。アマテラスオオミカミは繭(蚕)を育てていた。ゼウスが勤勉に働いたなどとはギリシア神話のどこにも書いてない。(西洋や中東では)神さはま働かない。(日本の外の世界では)労働は懲罰だった」
橋爪「日本人にとっては働くのが当たり前で、働くのは罰ではなかった、と。働かないのが偉い人間、という考え方は初めのころには無かったのか?」
小室「そう(無かった)。これは非常に珍しい。日本では窓際族になるといたたまれないけど、ヨーロッパであればそれは喜ぶ。定年になると色んなこと大喜びでやる。日本では定年になると悲哀に沈む」
橋爪「ヨーロッパでは『勤勉には価値がある』とプロテスタントは言ったけれど、普通の人はそうは思えず、やりたいことと働くことは別で、働くことはやりたいことじゃない。でも日本人は働くことが大好きで、働かなくてもいいと言われると何していいのかわからなくなる。つまり、日本人の仕事好きは、宗教的な価値観に近い」
小室「宗教そのものかもしれない。資本主義社会の一端を日本人は(大昔から)持っていた。日本人の勤勉さは仏教や神道や儒教とは無関係。勤勉とは下層民にやらせることであって、王様がやることではない」
橋爪「日本の外の世界では王様が命令すると人間は勤勉になることがある。日本人の場合は王様が命令したわけでもないのに、文化として勤勉さが組み込まれている」

橋爪「日本教の中味として『空気』が支配するというのがあるが、『空気』とは一体どういうものか」
小室「人々が漠然と思うこと。どんな宗教にもドグマ(宗教宗派の教理)があるが、日本教には教理がなくて、人々がそれを良いと思えば良いということになる。そういう雰囲気が自然に生まれて人々を拘束する」
橋爪「儒教では偉い政治家が人々に命令する。キリスト教世界では神が人間に命令する。日本人の場合はそんなものを全然信じておらず(神や王という概念が存在せずに)、自分達しかいない。それで自分で自分の首を絞めるような、コントロールする『もの』が自然と生まれてしまうと」
小室「そう」
橋爪「そういう『もの』が生まれてしまうプロセスは説明できないのか」
小室「力を持ってしまう(←答えていない)」
橋爪「普通、民主主義とか合理的な近代社会というのは、個人個人が自分の考えを持ち、反対があってもそれを主張していくことが出発点になる。自分の考えを持って主張してはいけない、というのが『空気』という考え方。例えば大勢の会議でもなかなか意見が出てこずに、どうも答えは決まっているようで、その会議ではない別の所で大事なことが話し合われている。その別の場所でもやっぱり結論が決まっているようなことがある。さらに奥の一部分で決まっている。そうして誰がいつ決めたかわからないことが、いろんな会議を通っている間にすっかり本決まりになっていく。これが『空気』の働きなのだが、これだと討論できなくて困る。日本人って昔からこんなことばっかりやってきたのか?」
小室「そう。信長や頼朝の時代から。信長でも『自分が決める』ということは言わない。秀吉が重んじられたのはそのため。『こういう意見もある』と秀吉が言い『じゃあそうしよう』と信長が言う」
橋爪「『私がこういう風に決める』とは、日本人は絶対に言わない」
小室「言いたくない。日本では信長や頼朝と言えども、マゼランのように最終的な決定を自分で(一人で)できない」
橋爪「それは、絶対の神や絶対の価値を、自分達(=人間)とは別に、独立して存在しているものであると認められるかどうかの違い。神というものがまずあって、全員が従うのだということに慣れていれば、神の代理人、神を解釈する人、神の原則に忠実な人、という『偉い人間』が出てきた場合、その人に従おうとみんなが思う。でも日本みたいに、絶対の神や絶対の価値がある誰も思っていない場合、偉そうな人間が出てくると、『同じ人間のくせに』と思って従おうとしない。(そう考えている大勢の人間を従わせまとめていくためには)お膳立てというものが必要になってくる(だから官僚的なシステムが力を持つ)。すると意思決定はお膳立ての結果、ということになる。これを『空気』と言っていて、それが日本教と普通の宗教との違いであると、そういうふうに理解ができる」

小室「日本で禁止された宗教はキリスト教だけ」
橋爪「不思議だ。なぜか」
小室「強力だった」
橋爪「日本社会を根底から覆す可能性があったと」
小室「そう。しかしその時のキリスト教徒(キリスト教に帰依した日本人達)がキリスト教を理解していたかというと、まず理解していなかった」「本当のキリスト教徒なら踏み絵は(偶像なので)平気で蹴っ飛ばす(踏みつけてしまう)。でも日本のキリスト教徒にはそれができなかった。だからキリスト教ではなかったと思う」

橋爪「キリスト教と明治天皇制には似ている。神である、そして人間でもある天皇というものがいて、それが国を生まれ変わらせたから」
小室「それは注目すべき意見。キリスト教の一番すごいところは予定説とファンダメンタリズム(聖書を根本原理とすること。伝統的な価値観へと回帰する考え方)。そういうのが日本にはずっと無かったけれど、明治維新のときに出てきた。明治の初頭、日本の神話を教育の中に組み込んだファンダメンタリズム教育は、徳川幕府の時代まで行われなかった。徳川の時代は日本の神話は作り物だと思われていた。(西洋列強と同等の)近代国家になるために、日本教がファンダメンタリズムに徹した」
橋爪「すると(明治の初等教育は)神話を教えているけれど、大変に近代的なこと」
小室「そう」
橋爪「その結果、日本のどこが変わったか」
小室「日本が国家として誕生できた」
橋爪「普通、国家は宗教と分離することで誕生するが、日本の場合、宗教と分離しないで、むしろ宗教に徹することによって国家になることができたと」
小室「国家神道がキリスト教の代用品になった」
橋爪「代用品にはなったが、宗教国家になってしまった」
小室「そのおかげで近代国家になれた」
橋爪「(アナウンサーと顔を見合わせる)…ということは、戦争に負けてしまった後、天皇が人間宣言をして、国家は宗教的なものであってはいけないと言ったため、日本人は近代化のバネを失ってしまった?」
小室「そう」
橋爪「経済だけがあって、他の価値観は混迷を極めていると」

橋爪「一人一人が世俗の経済とか政治の問題とは違った自分の信仰をを持っていて、その結果、日本にも生き生きとした宗教がいくつも育つ、というのが普通のやり方(あり方)なのだと思うが、世間を見ると宗教に対する無関心が主流で、信仰を持とうという人はあまり多くはない。すると西洋のように宗教と国家が分離した近代社会にはなかなかならず、『空気』というあいまいな日本教だけは生き残り、あとは経済だけが頑張っている社会になってしまっている」
小室「その経済もだんだん頑張れなくなった」
橋爪「日本人はこれからこうすればいい、というメッセージはあるか」
小室「宗教を徹底的に人々に理解させること(特にキリスト教)。私たち自身のことを理解するために、まずは世界の(既存の)宗教をきちんと理解する必要がある」

 

ナルシシズムの檻から抜け出す

■「あなたは、この成長の過程で、実はお母さんに対して、どういう感情を持っていました?」
〇「あの、冗談で言ってたんですけど、『お母さんはほんとは子供が好きじゃなくて、お父さんの手前、あたしたちを好きなふりして育てていたのかなぁ』っていう… ことをちょっと….」
■「僕はね、それが本当のあなたの感情だと思います」
〇「え?」
■「この感情は、怖いから」
〇「…ええ…?」
■「すごく怖いでしょ、この話」
〇「えええ…?」
■「すごい怖い話だから、これは正面から向き合えないですよ、なかなか」
〇「ええ….. ああ…..」
■「母親の愛の欠如は」
〇「はい」
■「その人は、一生忘れない。全生涯に渡って影響は消えない」
〇「…. 」
■「だけども、これはしっかり自分を自己分析して、見つめれば」
〇「はい」
■「乗り越えていかれるものなんですよ」
〇「はい」
■「わかります?」
〇「….ちゃんと、向き合います」

(0:00~14:00まで)