Kのブログ

~テキスト倉庫と日記~

カテゴリー: Uncategorized

「自己の外には自由はない」

Boehme22.jpg

自然の外は永遠の静寂、すなわち無。この永遠の無のうちに永遠の意志が生まれ、無を有の中に導き入れ、こうして意志は自分自身に出会い、自分自身を感じて、見る。無の中では、意志が自己の姿に接することはない。意志は自己自身を求め、自己のうちで自身と出会う。そしてこの求めるという働きが欲であり、見出すことが欲の本体(=存在する場所)であって、そこで意志は自分自身を見出すのである。意志は見出すもの、それは飢えと言う性質以外の何物でもなく、飢えは意志自体であり、意志によって意志のうちに引き込まれる。つまり意志は、自己を自己自身のうちに引き込み、自己自身のうちに自己を見出す。そしてこの働きによって、そこに影または闇ができる。それは無である自由の中には無かったものである。自由の意志は欲の本体によって自ら影あるものとなる。

こうして、欲につきまとわれた意志は闇の中にとどまることを余技なくされるが、闇は意志とは正反対で耐え難いものであれば、闇から外へと逃れ出て自由のもと、無の中へ出ようとする第二の意志がそこに生じる。しかし、自己の外には自由はない。そこで新たに生じた第二の意志は自分の中へ戻らなければならないのであるが、もやは欲から離れられない。なぜなら自由とは、欲の出てくるその前の無であり、意志(=欲)が無というのはありえないからである。意志は無の中で自分の姿をあらわそうと欲する働きであって、欲という存在物の媒介なしには、およそいかなる顕現もありえない。新たに生じた第二の意志があらわれ出たいと欲すれば欲するほど、それだけ激しく欲は収縮し、自分のうちに三つの姿をつくる。

欲するとはしぶみであって、固さを生じる。欲するとは中に閉じ込もる運動であって、そこから寒さ、冷たさが生じる。そしてここに反抗して動く棘(とげ)の運動が起こる。引きつける固さ・しぶさに逆らう動き(=摩擦の抵抗)なのである。この動きが第二の姿、運動と生命の生まれるもとであり、渋さ・固さの中で頭をもたげて動き出す。その働きは、内へと収縮する固さの容認し得るところではなく、ますます激しく収縮し、一方棘(=摩擦と抵抗)はますます強くなり、斜めに突き破って抜け出そうとするけれど、上手くいかない。欲の渋さに下へと引っ張られるのである。こうして、ここに三角形、あるいは「十字の輪」とも言うべきものが生じて(上へも下へもいけないために回転運動が生じて)ぐるぐると回りだす。こうして欲の内部に混合が起こり、(森羅万象の成長をうながす)エッセンス、あるいは欲の多様性が生じる。回転は耐えざる混乱、たえざる破壊を引き起こし、ここから痛みをともなう不安という第三の姿が生じる。

一方、渋さである欲は(引きあい、拮抗し、回転する働きの中で)ますます激しくなるので、欲へと向かう第一の意志は厳しくなって、飢えとなる。こうして意志は、無から有なるものの中へと歩み出すが、有るものを見ると(それが自らの欲を満たし、静寂を与えてくれないために)嫌悪感に襲われ、安らぎは得られない。まさしくここに敵意の本質がある。自然は、自由な意志に従い、ものは、自ら自分自身の敵となる。

欲であるフルは、スル(自由な意志)と切り離せず、それは一語のもの(スルフル)であり、もともと一つの存在物でもある。それが自らの二つの性質、喜びと苦しみ、光と闇に分裂する。こうして、厳しさの内には闇の火の世界、自由のルスト(=意志)の内には光の火の世界という二つの世界が生じる。この自由のルストこそ、日を明るく輝かせる唯一の原因である。なぜなら火はもともと暗く黒い。そして神性は火の輝きに起源し、暗黒の不安の泉は、自然の起源となる。

苦とは、静寂の永遠である自由なルストの医者である。なぜなら、苦によって静寂は生命あるものとなり、不安の苦によって喜びの王国である生命の中へと移行できる。無は永遠の生命となり、静寂の中には見出すことができないものを見出したのである。

スル(=意志、それを自ら味わう感覚)は、不安である自然の欲の医者となる。自由は、燃え出した自然の火を受けて輝き始め、暗黒の不安を照らし、不安を自由で満たす。すると憤怒は消え、「回転する輪」は止まり、輪にかわって「ひびき」がエッセンスの中に響きわたる。

これがガイスト(=霊)の生命における姿であり、エッセンス的な生命の姿である。スルとは喜びの生命の起源であり、フルとはエッセンス的生命の起源である。ルストは自然以前であり、自然の外の世界にあって、真のスル(=意志)であり、ガイストは苦の泉(クヴァル)をくぐり抜けて自然の中に姿を顕すが、それには二通りの姿がある。すなわち、自由のルストの面では喜びの泉、不安な欲のルストの側面では、渋くて棘のある敵意に満ちた苦さ。どの性質もそれそれのうちに安らぎながら、互いに相手の中へと入り込む。両者はたがいに相手の内に宿り、かつ相手を理解することなく、しかも互いに相手を癒す医者となる。

これを理解しようと思う者は、(理性の輩が声を荒げて『本とか文字(=信念体系)が大切だ』と言おうとも)ひたすら想像力の助けを借りるべし。永遠なるものは魔的なのである。

(ヤコブ・ベーメ「シグナトゥーラ・レールム」/第2章7~16より抜粋)

413sjqPpICL._SX367_BO1,204,203,200_.jpg

広告

「言葉を超えたものは、それがリアルに経験される場合、言葉を否定するとともに、言葉に溢れる」

aquinas_amoris.jpg

周知のようにトマス(アクィナス)の『神学大全』は未完であり、トマス自身が筆を折ることによって途絶した。全精力を傾けて『神学大全』第三部の完成に専念していたトマスは、1273年12月6日の朝、聖ニコラウスの祝日、いつものように礼拝堂でミサをささげた。そのミサの間に何か決定的なことが起こったに違いない。ミサの後、それまで寸暇を惜しんで続けてきた著作の筆を投げ、書くことも口述することもいっさい止めたのである。

秘書が著作の続行をしきりに勧めても、トマスはただ「私にはもうできない」と繰り返すばかりであった。更に勧めると彼は最後に「兄弟よ、私はもうできない。大変なものを見てしまった。それに較べれば、私がこれまで書いたものは、わらくずのように思われる。私は自分の仕事を終えて、ただ終わりの日を待つばかりだ」と答えたという。このようにしてトマスは突然、一切の教授、著作活動を停止した(そして翌年の3月7日に没した)。

沈黙せしめる当のものが、沈黙せしめるという仕方で現前してきたそのあり様は、神学的に言うならば「超存在」に他ならない。しかし、そう言ってしまうと既に概念であって、存在を超過するものが現れるときは、超存在という概念組織そのものを突き破って現前するであろう。概念組織はちょうど、立体が平面図に写し取られたようなものと言える。当の立体が現成するときは、その平面図を突き破って現れる。

この例えに即してもうひとつ、考えておきたいことがある。思想世界が「わらくず」のように見えながら、それがわかっていながら、かえってその(立体的な)経験に裏打ちされて、ふたたび平面的な思想世界を投企する、ということもあり得るのではないか。平面図しか知らないあり方においてではなく、立体の自己投与、立体の一部をなすもの(断面としての平面)として。

エックハルトは当の説教そのものにおいて、神も魂もともに言葉によっては捉えられないことを繰り返し強調している。「説きえない」と説き、「沈黙せよ」というその矛盾の緊張によって、説教の話体が決定されている。

神の言(ことば)は「一(いつ)」そのものであり、不可分なる「一」自体は、「二」すなわち神がり被造物があり、主があり客があり、主語があり述語がある「二」の世界には、その根源性のままに移し入れることができない。

語りえないということを語るとは、平面的になれば自家撞着であろう。しかし、ここにこそ、何としても言い得ないものを、何とかして言い表さんとする、そして言われたことを再び沈黙へと取り消そうとする、言葉への神秘主義の二重の苦闘を見ることができる。

言葉を超えたものは、それがリアルに経験される場合、言葉を否定するとともに、言葉に溢れる。そしてそのような事態そのものが再び言葉において歩湧現され、エックハルトの説教の語体と語彙が特色づけられてくる。

133467683.jpg

「我を失くす」「弱める」ということは、脳神経の時間補正を受けた情報世界=「おはなし」を突き破り、言語が機能しない脳外の世界に接触することだと俺は思う。

mont_hillma1_1-600x450.jpg

我とは、個人的なものではなくて、集合的なところで生まれるものだ。言語(文字や言葉でなくてもいい)を使ってコミュニケーションできる生物が、2つ以上集まると我は生じる。荒野に1つ、1匹、1人なら、我は生じない(生じようがない)。また、言語を持たない生き物が何百集まっても、我は生じない。

であるなら、言語と自分を切り離すことができれば、我は生じない、ということになる。個でありながら全体であるとは、言語から自分を引き剥がすということ、「言葉は自分ではない」「思考は自分ではない」「概念は自分ではない」と、つねに切り分け続けていくことだ。そういうことは訓練(いわゆる宗教的な修行)を積み重ねることでできそうな気がする。でもひとつ引っかかることがある。

もしも「知ること」=「在ること」であるなら、言語を存在から引き剥がす、なんてことは果たして可能なのか。

エックハルトは「存在よりも知性が上だ、知性を持って認識することが、イコールで神だ」と、ある時期に語る。これを読んだとき強い違和感を覚えた。「知ること」と「あること」はイコールだ、という感覚が自分の中にあったからだ。しかし、よくよく感覚の働きを自分に問うて確かめてみると、「自分がいる」ということを知る働きが、まず先に合り、そののち自分が「ある」。認識する働きの方が存在の前にある、と体は確かに感覚している。しかし同時に何かうさんくさい触感も上がってる。奥に別の構造がもうひとつあるように思えてならない。

【ガザニガの分離脳患者の実験】
Cytwhz3UUAQFfhO.jpg

てんかんの治療で脳梁切られ、右脳と左脳が分離された状態になっている人がいる。その人の左耳に「歩いて」と言うと、言われたとおりにその人が歩く。その後、右耳に「なぜ歩いたの?」と訊いてみると、「ジュースを買うため」という作り話を答える。

つまり、人間は「なぜ?」と訊かれたときに、たとえ理由が分からなくても(=答えられるだけの経験値や知識を持ってなくても)、過去の記憶や目の前にある状況や情報を材料に使って、辻褄の合った答え=「おはなし」を瞬間的に作り出し、人に語って、自分も信じる、という行動を、日常的に無自覚にしている。

脳が無自覚にしているこの現実認識の編集操作には、コンマ数秒の時間がかかる。認識→編集のタイムラグがゼロコンマ数秒あるわけだけど、脳は時間の感覚を巻き上げることで、この落差を埋めている。つまり俺達が認識しているのはコンマ数秒前の世界だ。けれどすべての人間の脳神経組織が同じ処理をしているために、認識上のタイムラグはゼロとなり、生きていく上で問題は起きない。

しかしそのこととは別に「認識が編集されている」という事実は厳然とある。俺達がコンタクトしている「現実」は脳によって編集を施された情報であって、時間的にも空間的にもダイレクトな世界には触れていない。そしてそうであることを、俺達の意識は、隅の方でちゃんと気がついている。

脳に時間を編集されたコンマ数秒後の世界においては、エックハルトが説教の中で語る「知性は存在の上にあり、知性こそが神である」という概念は成り立ち得る。でも脳が時間を巻き上げる前の世界=編集前の世界においては、エックハルトの概念は成立しない。そこでは「知ること」と「あること」が、同じことであり、同時に起きてる。

我の問題に話を戻すと、我に囚われて生きたくない、と考えるとき、問題になるのは、言語機能が、脳が編集する前と後のどっちの世界に属するか、脳に編集される前の認識世界に言語はコンタクトできるのか、ということだ。これを自分の体に確かめてみると「できない、不可能」という答えが瞬間的に返ってくる。言語は、脳に編集される前の世界に接触することはできない。接触すればその時点で言語機能は消滅し、論理や概念は働くことはもちろん、存在することもできなくなる。ラマナ・マハルシが何度も語る「真我に到達することで知性は溶け去る」という話は、きっとそういうことなのだろう。

自我境界線(境界面)は主に言語でできているので、「我を失くす」「弱める」ということは、脳神経の時間補正を受けた情報世界=「おはなし」を突き破り、言語が機能しない脳外の世界に接触することだと俺は思う。ならば、これまでSNS上で俺が書いてきた「言語を自分から引き剥がす」という話は、誤った捉え方であり、そのように考え続けることでむしろ我を強めてしまう可能性が高い。

分離して遠ざかるのではなく、自分の奥へ向かって認識の舌を伸ばしていく。内側に深く潜っていけば、剥がさなくても言語は消えるし、言語の働きが消えるところで自我境界線も消滅する。理屈ではそういうことになる。それが自分にできるかどうかは、試してみないと分からない。晩年のトマス・アクィナスやマイスター・エックハルトやラマナ・マハリシには(おそらく)できてた。不可能でないことだけは確かだ。

「現実を不可能にするものが、現実世界のただ中に出現することによって、腐敗の泥によって固められた現実に穴が開けられ、もう一度組み替えられていく原点になりうる。その新しい現実は、原点と重力の矛盾そのものを活力にするような現実であるだろう」

b2175.jpg

富裕な織物職人の息子として生まれたフランチェスコは、貧困無所有の召命に応じ、ただひたすら己を空しくしてキリストに倣う生活に入った。この(清貧、ではなく、単純な)貧困は(彼にとって)神への自由の道に他ならなかった。

一切を捨ててフランチェスコと貧困無所有を共にする兄弟たちが十二人になった時、彼は修道会設立を願い出るためにローマに赴いた。(彼と彼の「小さき兄弟たち」は)明日の食糧をすら貯えることを禁じた。これはまさに、教会が排除し続けてきた「使徒的生活」の異端ではなかったか。(しかし)インノケンティウス三世はそのフランチェスコに教会の門を開き、祝福を与えたのであった。

フランチェスコの「兄弟たち」は驚くほど急激に増えていった。1217年には数千人に達していた。それに従ってフランチェスコ会は、貧困無所有の彼のこころざしとは異なった形態をすでにとりはじめていた。

フランチェスコ自身は1221年にフランチェスコ会から「再出家」し、ごく少数の兄弟たちと共に、単純に極限的貧困無所有を貫き、病苦の後、失明のうちに臨終を迎え、1226年、44歳の地上の生涯を終えた。フランチェスコの徹底的な貧困無所有の実践は、それが福音の心理であるとすれば、中世教会そのものの否定につながるものであった。

1223年1月、教皇ホノリウス三世によって(フランチェスコ会は)修道会として正式に認可されるのであるが、(その会は)フランチェスコの初志からますます遠ざかったもので、教皇庁の強力な指導はそのまま会の強大さにつながっていく。「小さな兄弟たち」は強大な修道会に変質した。「書物や学識は重んぜられるべきではない。知識は人を誇らしめる。しかし愛は徳を育てる」と言い、祈祷書を持つことすら認めようとしなかったフランチェスコの流れから、歴史は高度知識集団としての学派を作り出した。

このような歴史が示すように、教団自身はフランチェスコとは独立に、いわば自動的に展開して行った、あるいは行かざるを得なかった。フランチェスコの徹底した貧困無所有は、教会のみならず現実社会を不可能にするようなものであった。しかし、現実を不可能にするものが現実世界のただ中に出現することによって、それは、いわば腐敗の泥によって固められた現実に穴が開けられ、風が通され、埃を払って、現実からもう一度組み替えられていく原点になりうる。そして現実が組み直されていくとき、再び現実性そのものの重力、それなくしては現実をなさないような質量の重力が動く。そのようにして成立する新しい現実は、原点と重力の矛盾そのものを活力にするような現実であるだろう。

133467683.jpg
人類の知的遺産(21)/マイスター・エックハルト(上田閑照)

「神」という言葉をすべて「(純粋な)存在」に入れ替えると、エックハルトが教義を通して語っていることが明確になる。

img_0.jpg

「自然の主であり給う神は、いかなるものをも空虚のままには置き給わない。空虚を見出し給うならば、ただちに自らを注ぎ込んでそれを充たし給う。お前は、お前の働きを一切停止し、お前自身とすべての被造物を忘れ去り、空にして無にならなければならない。無からよろめき出てはならない。お前がそのように準備がととのっているのを神が見出し給うならば、そのとき、神は御自身をお前の中に注ぎ入れ給わずにはいられない。準備ができていることと注ぎ込むこととは、いかなる遅滞もなくただ一瞬のことである」

「お前はここかしこと神を探す必要はまったくない。神はお前の心の戸口より遠いところに居られるのではない。神はお前が心を開くのを待ちかねて居給うからである。お前が神を求めるよりも千倍も切迫して神はお前を求めて居給う」

「神は常に用意して居給うているが、我々の方が用意ができていないのである。神は我々にまことに近くにおわすが、我々は神から遠く離れている。神は内に居給うが、我々は外に出て異郷に居るのである」

この「神」という言葉をすべて「(純粋な)存在」に入れ替え、謙譲表現を外して読んでみると、エックハルトがキリスト教の教義を通して語っていることが明確になる。

「自然の主である存在(意味や理由から自由になって、ただ純粋に『ある』ということ)は、いかなるものも空虚のままには置いておかない。空虚を見出せば、ただちに自らを注ぎ込んでそれを充たす、お前は、お前の働きを一切停止し、お前自身とすべての(言語によって記号的・抽象的に認識された)『被造物』を忘れ去り、空にして無にならなければならない。無からよろめき出てはならない。お前がそのように準備がととのっているのを存在が見出せば、存在は自分自身をお前の中に注ぎ入れずにはいられない。準備ができていることと、注ぎ込むことは、いかなる遅滞もなくただ一瞬のことだ」

「お前はここか、あそこかと、(自分の)存在(感、生きてここにいる手ごたえ)を探す必要はまったくない。存在はお前の心の戸口にいて、お前が(我によって硬くブロックされた)心を開くのを待ちかねている。お前が存在を求めるより千倍も強く切迫して、存在はお前を求めている」

「存在は常に用意しているが、我々が用意できていない。存在は我々のすぐそばにあるが、我々は存在から(自我に固く守られることによって、ブロックされ)遠く離れている。存在は内側に最初から居るのに、我々は(自分自身の存在感を探して)外に出、異郷にいるのである」