「自分自身に対して心理学者であろうとすると、性格という現実の刻印のかわりに、心理という抽象的なメカニズムが現れる」

投稿者: kibakoichi

性格論の元祖テオフラストスが、人間の性格を論じようとするにあたって、好んで自分を信じられないという自己韜晦術の達人を論難することから始めているのは、きわめて正しいやり方であった。

自分自身に対して心理学者であることに慣れた人々は、自分で自分が信じられぬというセリフを好んで使う。彼らは自己韜晦(とうかい)が目的なのではない。無論どんな種類の達人でもない。ただ高級な意識の持ち主には性格を紛失する特権があると思い込んでいる、神経質な怠け者にすぎない。

自分自身に対して心理学者であろうとすると、性格という現実の刻印のかわりに、心理という抽象的なメカニズムが現れる。
自分自身に対して、心理学者であるよりも、俳優であろうとすることの方が、遥かに人間らしいことである。そうすることで、性格の問題は、人間の実践的な倫理問題として現れてくるし、そうなる他はない。

テオクラストスが捕らえたのは、実際的で利己的な目的、つまり自分個人の都合のために、他人をごまかして世を渡ろうと決心した悪漢であって、善悪の彼岸に心理のメカニズムを織る孤独な人間ではない。二人とも同じセリフを使う、自分で自分が信じられない、と。しかし前者のセリフはあくまで俳優のセリフであり、その効果はあらかじめ計算ずみとはいえ、実際に他人の上に試みてみなければ安心できるものではないが、後者のセリフは、他人を締め出した上での独白にすぎない。見かけだけが似ている。

自分としては自分のやることに自信を持っていればたくさんだ。貴方が心配するほど骨の折れる仕事じゃない。人間には、みんな俳優の才能が備わっているからね。人は騙したいものだし、また人から騙されたいものだ。要するに性格というものは、ごく手軽に安直に扱っておいた方が、日常生活には便利だね。クソ真面目に扱おうとすると自己反省という空しい遊びをやり出すようになる。

(小林秀雄全集 10 ゴッホ)

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