「日本人は人間の都合が神の都合よりも大事」

投稿者: kibakoichi


小室「仏教でも儒教でも、日本に宗教が入ってくるとすべて戒律が抜けて『日本教』になる」
橋爪「本質が抜けるのであれば、付け加わるものはないのか。『日本教』の中味というものは一体何か」
小室「役人が宗教を作る。ありうべからざる作り方をする」
橋爪「役人は現実の問題を処理する人達。そういう人達の都合が優先されて、宗教の論理は二の次三の次になってしまうが、日本人はみんな『それでいい』と思っていると」
小室「そう」
橋爪「それは宗教とは違ったものですね」
小室「非常に違う。儒教は中国では宗教だけど日本では道徳の一種になる」

橋爪「仏教だったら一番大事なものがこの世の真理とそれを知る悟り、儒教であれば政治制度やそれを通じて人民の幸せを実現すること、そういう大事な事柄の順番がある。でも日本に入ってくると、そういう本質的なことが二の次三の次にされてしまうのは、それよりもっと大事なことがあるためでは。何が一番大事だと役人なり日本人は考えているのか」
小室「日本の、国民の、好みが大事。人間そのものに対する好み」
橋爪「日本に暮らしている日本人が、日本人として暮らしていることが一番大事、ということか?」
小室「簡単に言えばそう。キリスト教徒は人間よりも神の方がはるかに大事だと考える。日本人は人間の都合が神の都合よりも大事」
アナ「日本には神様というものが無くて、私達(人間)が一番大事、ということなのか?」
小室「そう」
橋爪「日本には神様もたくさんいるし仏さまも拝まれている。それと人間(の都合)が一番大事だと考えることはどうつながるのか」
小室「一神教(の世界)では、神が人間より先に存在して、神だけが本当に生きていて、人間は神が作ったものにすぎない。日本では神様はすべて人間の都合。それが日本教の特徴」
橋爪「神様が人間に命令したり指図することはできないし好ましくない、むしろ人間が神様に命令したり指図することができれば一番良いと」
小室「結論としては。仏様でも同様」

橋爪「日本人と言えども仲間を大切だとは思うが、現実には欲張りもいるしケチもいるし権力の亡者もいるし色々と欠陥のある人間がいて、そういった人達をあるがままのに大事だとは思いにくい。だからこそ、どこかに神や仏がいる(いてほしい)と考えるのが筋なのに、どうして日本人の場合は神や仏を大事と思わないで、人間を大事と思うのか」
小室「神とか仏と言っても、その行き着く果てには人間がいて、人間のためになり、人間のために存在している。本来の(日本の外にある)神や仏はそうではない、ということが日本人には理解できない」
橋爪「キリスト教が来る前、仏教が来る前から、日本人はそう考えてきたし、そのようにしか考えられない、ということか?」
小室「そう。そしてそのことを(自分達で)理解するのも大変」
橋爪「仏教の国だとか、神道の国だとか、クリスチャンもそれなりにいるではないかと、私達は自分達を外側から見てしまうけど、中味は実は違っていると」

アナ「日本教の場合、どんな行動パターンがあるのか」
小室「行動を作りえない、『このように行動しなさい』というのが無いところが、日本教のパターンの特徴」
橋爪「…それでは何にも(何者にも)なれないのでは?」
小室「そう。ならない。だから最も宗教らしいイスラム教も日本に入ってきていない(来ても根付いた形跡がない)。イスラム教は行動パターンがきちんと決まっていて、日本の西行法師みたいに『なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる』なんてことはありえない。イスラム教と日本教は正反対で対立的」
橋爪「日本人は、何を信じているかというと、『特に何か大事なものがあってそれに比べて自分が価値がない』と思うのは大嫌いで、『色んなものがあるけれども自分の役に立てばいいや』と。偉そうな人にああだこうだ言われて、自分をそれに当てはめていくのは嫌だと、頑なに信じている」
小室「結論的にはそうなる(無意識にそうしている)。だから中国と比べても日本には孔子みたいにきちんと固まった『聖人』は出ない」

橋爪「ヨーロッパの社会は苦労に苦労を重ねて、宗教と国家を分離し、宗教を近代化し、国家を近代化した。やっと人間が勤勉に合理的に行動できるようになった。ところが日本人の場合、そういうプロセスを踏まないのに、何故か勤勉に働く。それで山本七平さんは頭をひねって『日本教』という考えを出した。日本人が勤勉に働く理由は何なのか」
小室「日本の神話では主神からして勤勉に働く。アマテラスオオミカミは繭(蚕)を育てていた。ゼウスが勤勉に働いたなどとはギリシア神話のどこにも書いてない。(西洋や中東では)神さはま働かない。(日本の外の世界では)労働は懲罰だった」
橋爪「日本人にとっては働くのが当たり前で、働くのは罰ではなかった、と。働かないのが偉い人間、という考え方は初めのころには無かったのか?」
小室「そう(無かった)。これは非常に珍しい。日本では窓際族になるといたたまれないけど、ヨーロッパであればそれは喜ぶ。定年になると色んなこと大喜びでやる。日本では定年になると悲哀に沈む」
橋爪「ヨーロッパでは『勤勉には価値がある』とプロテスタントは言ったけれど、普通の人はそうは思えず、やりたいことと働くことは別で、働くことはやりたいことじゃない。でも日本人は働くことが大好きで、働かなくてもいいと言われると何していいのかわからなくなる。つまり、日本人の仕事好きは、宗教的な価値観に近い」
小室「宗教そのものかもしれない。資本主義社会の一端を日本人は(大昔から)持っていた。日本人の勤勉さは仏教や神道や儒教とは無関係。勤勉とは下層民にやらせることであって、王様がやることではない」
橋爪「日本の外の世界では王様が命令すると人間は勤勉になることがある。日本人の場合は王様が命令したわけでもないのに、文化として勤勉さが組み込まれている」

橋爪「日本教の中味として『空気』が支配するというのがあるが、『空気』とは一体どういうものか」
小室「人々が漠然と思うこと。どんな宗教にもドグマ(宗教宗派の教理)があるが、日本教には教理がなくて、人々がそれを良いと思えば良いということになる。そういう雰囲気が自然に生まれて人々を拘束する」
橋爪「儒教では偉い政治家が人々に命令する。キリスト教世界では神が人間に命令する。日本人の場合はそんなものを全然信じておらず(神や王という概念が存在せずに)、自分達しかいない。それで自分で自分の首を絞めるような、コントロールする『もの』が自然と生まれてしまうと」
小室「そう」
橋爪「そういう『もの』が生まれてしまうプロセスは説明できないのか」
小室「力を持ってしまう(←答えていない)」
橋爪「普通、民主主義とか合理的な近代社会というのは、個人個人が自分の考えを持ち、反対があってもそれを主張していくことが出発点になる。自分の考えを持って主張してはいけない、というのが『空気』という考え方。例えば大勢の会議でもなかなか意見が出てこずに、どうも答えは決まっているようで、その会議ではない別の所で大事なことが話し合われている。その別の場所でもやっぱり結論が決まっているようなことがある。さらに奥の一部分で決まっている。そうして誰がいつ決めたかわからないことが、いろんな会議を通っている間にすっかり本決まりになっていく。これが『空気』の働きなのだが、これだと討論できなくて困る。日本人って昔からこんなことばっかりやってきたのか?」
小室「そう。信長や頼朝の時代から。信長でも『自分が決める』ということは言わない。秀吉が重んじられたのはそのため。『こういう意見もある』と秀吉が言い『じゃあそうしよう』と信長が言う」
橋爪「『私がこういう風に決める』とは、日本人は絶対に言わない」
小室「言いたくない。日本では信長や頼朝と言えども、マゼランのように最終的な決定を自分で(一人で)できない」
橋爪「それは、絶対の神や絶対の価値を、自分達(=人間)とは別に、独立して存在しているものであると認められるかどうかの違い。神というものがまずあって、全員が従うのだということに慣れていれば、神の代理人、神を解釈する人、神の原則に忠実な人、という『偉い人間』が出てきた場合、その人に従おうとみんなが思う。でも日本みたいに、絶対の神や絶対の価値がある誰も思っていない場合、偉そうな人間が出てくると、『同じ人間のくせに』と思って従おうとしない。(そう考えている大勢の人間を従わせまとめていくためには)お膳立てというものが必要になってくる(だから官僚的なシステムが力を持つ)。すると意思決定はお膳立ての結果、ということになる。これを『空気』と言っていて、それが日本教と普通の宗教との違いであると、そういうふうに理解ができる」

小室「日本で禁止された宗教はキリスト教だけ」
橋爪「不思議だ。なぜか」
小室「強力だった」
橋爪「日本社会を根底から覆す可能性があったと」
小室「そう。しかしその時のキリスト教徒(キリスト教に帰依した日本人達)がキリスト教を理解していたかというと、まず理解していなかった」「本当のキリスト教徒なら踏み絵は(偶像なので)平気で蹴っ飛ばす(踏みつけてしまう)。でも日本のキリスト教徒にはそれができなかった。だからキリスト教ではなかったと思う」

橋爪「キリスト教と明治天皇制には似ている。神である、そして人間でもある天皇というものがいて、それが国を生まれ変わらせたから」
小室「それは注目すべき意見。キリスト教の一番すごいところは予定説とファンダメンタリズム(聖書を根本原理とすること。伝統的な価値観へと回帰する考え方)。そういうのが日本にはずっと無かったけれど、明治維新のときに出てきた。明治の初頭、日本の神話を教育の中に組み込んだファンダメンタリズム教育は、徳川幕府の時代まで行われなかった。徳川の時代は日本の神話は作り物だと思われていた。(西洋列強と同等の)近代国家になるために、日本教がファンダメンタリズムに徹した」
橋爪「すると(明治の初等教育は)神話を教えているけれど、大変に近代的なこと」
小室「そう」
橋爪「その結果、日本のどこが変わったか」
小室「日本が国家として誕生できた」
橋爪「普通、国家は宗教と分離することで誕生するが、日本の場合、宗教と分離しないで、むしろ宗教に徹することによって国家になることができたと」
小室「国家神道がキリスト教の代用品になった」
橋爪「代用品にはなったが、宗教国家になってしまった」
小室「そのおかげで近代国家になれた」
橋爪「(アナウンサーと顔を見合わせる)…ということは、戦争に負けてしまった後、天皇が人間宣言をして、国家は宗教的なものであってはいけないと言ったため、日本人は近代化のバネを失ってしまった?」
小室「そう」
橋爪「経済だけがあって、他の価値観は混迷を極めていると」

橋爪「一人一人が世俗の経済とか政治の問題とは違った自分の信仰をを持っていて、その結果、日本にも生き生きとした宗教がいくつも育つ、というのが普通のやり方(あり方)なのだと思うが、世間を見ると宗教に対する無関心が主流で、信仰を持とうという人はあまり多くはない。すると西洋のように宗教と国家が分離した近代社会にはなかなかならず、『空気』というあいまいな日本教だけは生き残り、あとは経済だけが頑張っている社会になってしまっている」
小室「その経済もだんだん頑張れなくなった」
橋爪「日本人はこれからこうすればいい、というメッセージはあるか」
小室「宗教を徹底的に人々に理解させること(特にキリスト教)。私たち自身のことを理解するために、まずは世界の(既存の)宗教をきちんと理解する必要がある」

 

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