人間とは何か~マーク・トゥエイン

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一人の無神論者が、あるキリスト教信者の未亡人の家に、客になった。その家の男の子が瀕死の病人でいた。無神論者は、たびたび枕元に行っては、いろんな話をして子供を楽しませてやった。
それらの機会を使って、他人にも自分通りに考えさせることによって、それらの人たちの状態を少しでも良くしてやろうという、われわれ人間すべてが持っている欲求だか、それを満足させようとしたんだな。
ところが、死に臨んでその少年は、彼を責めて、こういった。

「ぼくには信仰がありました。それによって幸福でした。ところが、あなたはぼくの信仰を奪い、ついでに心の平安まで奪ってしまいました。いまやぼくには何も残っていません。みじめな人間として死んでいくのです」

そして母親もまたその無神論者に詰め寄って、こういった。

「あの子は、永遠の地獄に落ちてしまいました。わたしの胸は張り裂けるように、悲しみで一杯です。よくもこんな残酷なことができたもんですね」

これにはさすがの無神論者も、後悔で一杯になった。そして答えた。

「たしかにわたしがまちがっていました。いまになって、はじめてわかりました。が、わたしの考えでは、あの坊やの考えは間違っている。だから、真実を教えるのがわたしの義務だと、そう思えたんです」

母親の嘆きを見て、彼の心は痛んだ。子供に棄教を説いていた間、母親のことなどまったく忘れてたんだよ。自分の心に楽しいことをやっている。自分じゃ義務の声だと信ずるものを満足させるだけで、すっかり夢中になってたもんでね。
後悔がこの無神論者の胸を噛んだために、その子供の信仰に対するひどい冷酷さは解消した。彼自身信仰を勉強して、結局はキリスト教信者になった。そして、死んでいく少年から信仰と救いとを奪ったという後悔は、いよいよ厳しいものになった。そのままじゃ、平和も休息も彼の心にはなかった。
だから彼は宣教師になった。そして異教徒たちの国へ行った。

ある原住民の未亡人が、彼の自分の家に迎えて、またそこの子供が瀕死の重病にかかったんだ。宣教師は、いつか犯した過ちのせめて一部なりと償いたい、子供の信じている誤った神への愚かな信仰を掘り崩すことによって、たいへんな奉仕をするつもりだった。
ところが、その子供が死ぬとき、彼を責めて、何と言ったと思う?。

「ぼくには信仰がありました。それによって幸福でした。ところが、あなたはぼくの信仰を奪い、ついでに心の平安まで奪ってしまいました。いまやぼくには何も残っていません。みじめな人間として死んでいくのです」

そして母親もまたその無神論者に詰め寄って、こういった。

「あの子は、永遠の地獄に落ちてしまいました。わたしの胸は張り裂けるように、悲しみで一杯です。よくもこんな残酷なことができたもんですね」

これにはさすがの無神論者も、後悔で一杯になった。そして答えた。

「たしかにわたしがまちがっていました。いまになって、はじめてわかりました。が、わたしの考えでは、あの坊やの考えは間違っている。だから、真実を教えるのがわたしの義務だと、そう思えたんです」

人間とは何か