母殺しというのは、魂を奪還することです。

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「母は、子供の人格を認めていない。自分の所有物と思っている。

子供も、まだそこから離れておらず、母が怖いとか、無意識に、そこに依存し託しているものがあるので、自分で考えたり行動できない。考え方がそのまま母のものが転写されている。それに気がつかない。日本全体が母殺しができていない社会というのは、そうです。政治見たらそうだろべ。

母殺しできていない政治家がどのくらいいるのか。日本には、いまもう父親がいない。なので、ラカン式に言う、母と子の癒着を禁止する父の力というものが働かない。父親が子供に対してする態度も、基本的には母コピーである。それで、この母殺しというのは、無意識の領域に深く入り込んでいるので、自覚するのは大変に難しいです。わたしたちは集団基準が正しいものと思って、それを指針にする場合もあるので、すると集団が、母殺しできていない場合には、自分が母殺しできていないということを判断する基準は、どこにも見つからないからです。とくに男性の場合には、死ぬ直前まで自覚できないことは多いです。できたとしても、五十代とか六十代になる。自殺した伊丹十三が、雑誌のインタビューで、自分は五十歳になった今、はじめて母から自立したことがわかると話していたのは、よく覚えています。

で、占星術に限らず、占いというのは、実は母殺しができない人が、母殺しを模索するために走る方策のひとつです。しかしそこで溺れてしまう場合もあります。母ちゃんは何でも早手回しにしてくれた。自分の意志が育つ前に、なんでもしてくれた。というのが続くと、意志がスポイルされます。わたしのところに相談に来るお母さんは、特に母子家庭だと、子供の人生全部決めてしまっています。そのために一生をかけてもいいという決意まで見せてきます。全身全霊で子供に尽くすけど、それは子供の人生を台無しにする可能性は大です。

男の子の場合には、このお母さんの子供に対してのイメージ、『あんたは頭いいんだから』みたいなイメージがあると、それによって自分の自我を作り出し、根拠のない自信を持つことになり、このエンジンで一生走ることも多いのです。仕事の現場で培われた自信でなく、母の容認の言葉で作られる自信というのは、実際の能力を育成しないことはあきらかで、自己像と実像が激しくギャップを持ちます。で、たとえば、わたしの場合にはハイティーンのときに、両親が新築した家で寝ていた時に、いつも、部屋の空気を見ながら、『この空気の密度はすごすぎる。これはプールの中で生きているようなものだ。息ができない。ここでは自分の哲学が生まれない』と思って、まず、そこから距離を持つことを考えました。

この『ここでは自分の哲学は永遠に生まれっこない』という言葉そのものも、いまでもしっかり記憶しています。空気の密度は、母親が作り出したもので、目に見える領域でなく、もっと広範囲に、目に見えない領域に、網が張られています。この力はものすごいのです。子供が勝てるわけありません。それで、時給230円から始まる書店のアルバイトをはじめ、月収三万円になったくらいに、こっそりと、三畳のアパートを借り、はじめは一週間に一日、それから二日、それから三日というふうに、自分の住む拠点を変えてしまったのです。家賃は8500円だったと思うけど、それから月収三万円前後、一日の食べ物は、黒パンだけということも頻繁な貧乏生活が始まりました。

占いの話に戻るけど、自分で意志決定しないでも、母ちゃんは、早手回しになんでもしてくれる、という図式は、こんどは天体とか数霊とかにすりかわり、人間は自分で考えても考えなくても、天体が運命を運んでくれるというふうにシフトします。いいものも悪いものも自動的にやってくる。いいものだけでなく悪いものもやってきます。占いに依存すると、やはり意志は育ちません。

よくある携帯サイトの発想だと、何もしないでも、彼に振り向いてもらえるチャンスはいつ、とか。ある県の男性は、『何にもしなくてもお金が儲かる方法があると思って占いはじめた』と言ってたのを聞いたことがあります。母から逃れるために、男性を見つけて、結婚して、というふうな流れがあるように、あるいは、男性なら、母の影響を奪おうとする女性と結びついたり、というふうに、状況をシフトさせながら、その中で、母の影響から自分を切り分けて自分の自我を形成するという模索が続くとおもうのですが、こうした育成を占い分野に関わることで、達成するには、占いに失望するということが大切です。人と星は違うんだという。これは当たり前の話だけど、母の力から逃れるために占いを利用した人は、こんどは占い殺しをしなくてはならないのは当然です。

何かの分野で、それに失望するという体験を繰り返していない人が、その分野のことについて詳しくなったり、プロになったりすることはありません。失望するというのは、そこで、無意識に一体化しているものが分離します。そうしないと、自分の取り組みの姿勢が作られないのです。飲み込まれている場合、それを扱うことなんてできないじゃないですか。なので、どういうお勉強でも、失望したり、うまく行かなくなってから、はじめてお勉強のスタートですね。

占いでいえば、影響力を認めるが、その可能性と限界を正しく認識すると、自然界という母と、自分の自我の分化が起こるということになります。占いを否定する人の中には、たとえば何でも自分の意志で決められる。人生は自分で作るものという考え方がある人もいると思いますが、これも占い依存の裏返しで、占い依存と変わらないです。なぜといって、現実離れした空想理念に住むことになるからです。(なおかつ、母の力を盗んで成立した。)

人は、狭い範囲の、ある限られた場でだけ自由が許されていて、大部分は植物のように、条件に拘束されています。にもかかわらず、自分の意志でなんでも決められるというのは、前から何度も言うけど、自分以外の周囲の状況とか外界から目をふさいで、自分の殻に閉じこもること、狭い範囲の自由な場にのみ興味を集中させて、そこを過剰に拡大してみることによって、その空想的イメージがあたかも真実であるかのように思うことはできるのです。ものごとに始まりと終わりがあるという考え方は、自分を閉じることで成り立ちます。連続して流れているものも、閉じた自分の世界があると、そこで入ってきて、去っていくことになり、自分中心の世界では、それが始まりと終わりに見えてきます。自主性強調と、文化の鎖国は、二人三脚的に補いあってきたのです。

何かの影響力にいつも飲み込まれているということで言えば、占いしないで、かわりに、社会の条件、集団の条件、近場にある影響力に盲従して、母殺しができていないことと、占い依存は同列です。会社の方針に不満だが、しかし会社が言うのだからしようがない、食えなくなったらおしまいだから、という正当化も、母殺しができていないことの言い訳で、やはり甘えであることは言うまでもないです。母に力を奪われて、人間としての虚脱状態になった人は、集団に従順な人を作ります。この集まりができると、責任の所在を押し付けあう集団になってしまうので、かなり無責任です。意志の所在が自分のところにないために、どこに転んでいくか、誰にもさっぱりわかりません。

占いをする人は、今の社会がもつ集団的な価値観に、異を唱えている人も多いです。そういう反抗的動機で占いをする人。つまり今日の暦に対して違う暦を持ちだすようなものです、太陰暦、天体サイクルによる春分点スタートのリズムとか。反抗目的で、占いをするという動機でスタートした人は、後で、冷静になったら、社会と和解しなくてはならないのですけど。

わたしの思春期の場合は、強い母の力から距離を持ち、対抗材料として、占星術を持ってきた。見える部分でなく、見えないサイキックの部分まで力を及ぼす母の力に対しては、見えないところにまで、むしろそういう部分により強力な力を持つ占星術くらいしか対抗できるものはなかったといえるのかもしれない。それで、具体的にどう解決するのということは考えることではなく、大切なのは、無意識に沈んでいる、この癒着の関係性を、一度、意識化するということができれば、それでかなりの部分がスムーズになるということになります。そうすれば、自分がいかにスポイルされていて、虚脱状態であるか、という現実に気がつくでしょう。

スポイルされている現実に気がつくと、手近なところから、何かしてみるという第一歩が進めやすいとも言えます。わたしの場合、かに座を地層化した基盤というふうに説明していますね。そういう考え方を打ち出したので、母のサイズは階層状です。あとになるほど、より巨大化します。出発点は実在の母ですが、その後、集団社会の母、宇宙の母と続きます。ひとつ片付くと、その後は自動的にというわけには行きません。

それはともかく、自分の意志を打ち出し、その中に、自ら入り込み、森の中に進むみたいに、どんどんと、意志に反応して、新たな現実が展開されていくという、前進することでシーンが変わるドライヴ感は、体験してみると、その面白さが忘れられなくなり、これはバシャール×坂本政道の本での、ワクワクというものと同じですね。母殺しできていない人は、それを体験できてない。

環境も自分も表裏一体で自己を形成しているので、意志を押し出すと、自分の皮がめくれて、違う皮膚があらわれるみたいなものでもあって、この現実に気がつくと、人生はものすごく楽しくなります。

そのかわり、すぐさま、安全装置というか緩衝装置がはずれるので、受動的に生きていると、こんどは環境から入り込まれすぎてしまい、否定的な想念の坩堝みたいになってしまいます。押し出したいじょうは、押し出されるわけですね。押し出していなければ、そういう体験はしなかった。何かちょっとした眠りの安全装置を取り外してしまった。でも前進です。押すと反応する、これはすごい、という体験をするためには、自分の意志を押し出し、はじめはそれに環境は応じないが、途中で折れずに、そのまま押し続けると、ある段階で、環境のほうが態度を変えてくるシーンを実際に体験する必要があると思います。変えてくる瞬間、それを奇跡のように感じる。調停点と安息を得るためには、ダスカロスの言うノエティックの領域を発見しなくてはならないけどね。

無明庵は、現代人は、魂が希釈されていて、単独の魂を持つ人間はほとんどいないというようなことを言ってる。それは当たり前。グルジェフだともっと極端で、道を歩いている人々を指差して、ウスペンスキーに、ほら、あそことあそこのあれは魂がない、と言ったりしていたらしい。希釈ではなく、不在。この場合、人間存在というよりも、残像といいます。ホログラフなんだから、残像です。母殺しというのは、魂を奪還することです。父殺しは?と質問する人がいるかもしれないけど、これ入れ子構造なので、別の話をしているわけではないです」

(占星術研究家・松村潔氏の雑記より)

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