西欧精神とは『肉食』の思想であり、肉食の思想には『強烈な断絶論理』がその根底にある。

投稿者: kibakoichi

銀食器

昔のヨーロッパでの穀物生産の低さは目を覆わんばかりだった。9世紀の資料では、極端な場合小麦の生産効率は播種量の1・7倍、つまり播いた種の量の70%しか食べることができなかった。14世紀には播種量の3~4倍、19世紀はじめでも一部地域を除けば5~6倍である(因みに僧侶までが普通に肉食していた1900年当時のダライラマ13世頃のチベットは播種量の4倍程度である)。日本では徳川時代でも平均で播種量の30~40倍の米の収穫があったというから、いかにヨーロッパが穀物生産に適していないかが分かるだろう。一方で、ヨーロッパの気候は牧草に適している。それ以上に家畜の飼育に重要な、日本に比べて人口一人当たり5倍から10倍の広大な農業用地が欧州にはあった。氷河に表土を抉り取られた耕作には適さない痩せた広大なヨーロッパの農地では、食料としての家畜の飼育は当然な結果である。日本人とは逆に、ヨーロッパ人にとって穀物食は御馳走(贅沢品)で、領主に対する年貢も小麦ではなく家畜の場合が多かった。

西欧精神とは『肉食』の思想であり、肉食の思想には『強烈な断絶論理』がその根底にある。『人と動物』、『人と自然』、『人と神』を断絶することによって、形作られたのが西欧精神、キリスト教精神(一神教精神)であり、哲学的には、主体と客体、肉体と精神、彼岸と此岸などの相互に対立(並立)する『二元論』な考え方である。その一神教的な世界観から、人間中心主義が生まれ、其処から派生した人道主義、個人主義的な民主主義思想、そして遂には近代科学文明をも誕生させていく。日常的に家畜を食する西欧人にとって、宗教的にも思想的にも、人と動物を断絶する根拠と理論が何よりも必要で、そうしなければ日々を共に暮らす動物たちを殺して食する肉食中心の西欧文化は生まれ得なかったかも知れない。

西洋社会では飼育が困難になった愛犬は殺す。日本は殺さないが、(殺せないので)仕方なく捨てる。一方の欧米人は愛するものに『惨めな生』を与えまいとし、他方の日本人は愛するものに『残虐な死』を与えまいとする。ここには家畜を日常的に食ってきた民族と、食ってこなかった民族の『生と死』に関する明確な思考方法の『違い』がある。これは人間の尊厳死や安楽死にも及ぶ考え方で、人間の宗教観をも形づくっていると考えられる。自分の犬に『惨めな生』を与えない愛は『愛犬を人に渡したくないから殺す』愛にも転嫁する。他の生命を100%自己の所有物と見て殉死を求める絶対君主の思想にも近く、これは別れ話がでた恋人を殺してしまう男の考え方にも近い。欧州の氷河で削られた痩せた風土を背景に『自分が捨てたら、この犬はもう生きて行けない。』と考えた可能性もある。

和辻哲郎が『風土』の中で喝破したように、ヨーロッパの大地は確かに冷涼で牧草は育つが稲は育たない。人々は家畜を飼って寒い冬を生きる。家畜は文字どおりlivestockで『生きている保存食』である。最も身近にいる生命を食い潰さなければ生きられない社会は『人間だけは神に選ばれたものであり、他の動物は人間に食われるために存在する。』と言う考え方を受入れないと生きていけない。そこにキリスト教が受入れられた素地があり、『自分がいかに動物から遠い存在であるか』を常に考える発想がある。動物と人間の間に段階的に幾つかの概念を設定する必要が生まれ、身分や階級差を生む『違いを探す』発想が育った。ここから『地球は自分達の物』との確信が生まれ、欧米人による植民地獲得が正当化される。一方、自分の犬を『殺せない』愛は、『犬には犬の人生があり』これを自分が奪ってはいけないとする考え方である。これは対象との共通点を探す、人格(犬格)尊重の思考でもある。また『自分が捨てても何とか生きて行くだろう』と考える温暖湿潤気候を背景にした楽観的な思考でもある。日本人にとっては牛や馬は一緒に働く仲間であり、そこからは共生や輪廻の思想、多様な価値観の共存する多神教などが生まれやすい。

肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見

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