木葉功一のブログ

~テキスト倉庫と日記~

月: 1月, 2013

命のエキスは吸い上げられているのではなく、流れ落ちている。

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「共生の感覚」には視点の移動がある。猫を見ている自分、が、猫になって自分の見る。人間が他の人間や動物や植物を見て「嬉しそう」「楽しそう」「寂しそう」「悲しそう」「かわいそう」と思うとき、このようなことが瞬時に起こっている。生物がデフォルトで持っている機能というか性質と思う。

ヒトが他の生き物に比べて突出した能力を持っているとは思わない。突出しているのは視野の狭さ自閉の鋭さだと思う。この「自閉」と「視野狭窄」の落差は、ヒト同士の間にも存在する。より自閉し、視野が鋭く狭い方が、そうでない方を圧倒していく。

ルーツを意識して辿るのは、どれだけ多くの先祖の人々が血を繋いだ結果として今の自分が存在するのか、その広がりを押さえるため、時間感覚のモノサシをできるだけ長く伸ばすため。伸びたらそれを反対側に倒して未来のイメージを計るため、断片化して散らばった自分自身を拾い集めて繋げるためだ。

一神教のこと。過酷な地球環境への復讐心が根底にあると感じる。極端な崇拝の感情は裏返った攻撃心だ。

優しかったかーちゃんにDVされた。かーちゃんは鬼だった。従っていたら殺される。とーちゃんの言うことを聞こう。とーちゃんみたいになって、とーちゃんのように、怖いかーちゃんを支配しよう。自分自身のからだを含めて、かーちゃんに似たモノを支配しよう。ソシタラコロサレナクテスム。

凶暴なかーちゃんも、凶暴なとーちゃんも、かーちゃんを怖れてとーちゃん化しようとしている凶暴なにーちゃんたちも全部怖い。カゾクデコロシアウノハイヤダヨ。負けて逃げて極東の島国に落ち延びてきた子供たちが、時間をかけて混ざり合い日本人になったのならば、俺達がこうで、このようにされているのは、とても腑に落ちる話と思う。

無数の細胞が集まって人間の体ができている。細胞のひとつひとつに、人間という巨大な生き物を構成している自覚はない。そのような人の個体が一億三千万人集まって「日本人」というもう一段大きい人間の体を構成している。ひとりひとりにその自覚はない。

俺達の左脳=マインドは、自分の肉体を抽象化している。体を無視し、忘れている。「日本人」という一段大きな肉体で考えた時、その人の左脳=マインド=閨閥企業(政府ではない)が、肉体を無視し、忘れているのは、当たり前のことだと思う。しかし現実は、肉体が感じ、記憶し、反応している膨大な情報の集積よって、左脳=マインドの存在が支えられているのであって、肉体が滅びれば左脳も滅びる。その本質に気づく機能は左脳自体にはついていない。自分が何の一部であるのか、左脳は死ぬまで認知できない。一段大きい「日本人」という体においても、それは同じことなんだろう。

永井豪「バイオレンスジャック」2巻だったか「地獄地震」で無放地帯と化した関東を暴力で制覇している男が「人間犬」を飼っていた。逆らった若いカップルの四肢を切断、舌を抜き、裸のままで、鎖に繋いで連れ歩いていた。人間性を破壊された彼ら二人の姿を見て、主人公の少年は傷つき、泣いた。バイオレンスジャックは、その少年が傷ついて泣きながら語る言葉を「もういい、わかった」と制して止めた(受け止めた)。凄まじい暴力を身の内に孕んだ謎の巨人・ジャックのことを、少年はその一言で信じようと思った。この作品を読んだ当時、俺は10才くらいだった。作品に傷つけられると同時に、癒されて救われ、力をもらった。

病的な欲望も、理不尽な暴力も、生まれつきサディスティックな魂も、この世には確実に存在している。そういうものから目を逸らさず、ギリギリの線で描いて見せつつ、救っていくのが表現と思う(自戒を込めて)。

人間性と言動の正しさは一致しない。ポイントは善悪でなくエネルギーの流れにある。「ある場所や人」を見つけ、「ない場所や人」を見つけ、配列して流れの「通り道」を作り、エネルギーを横抜きしてプールする。手段と目的が倒錯しているところに牧場のシステムと搾取がある。

IQの高いサイコパスにお金や権力が集まるのは、哺乳動物が抱く血の愛情=自己愛=位置エネルギーが極端に低いからだ。

善悪のモノサシに囚われている限り「何で???」の旅は果てしなく続く。エネルギーの流れとして捉え直すと腑に落ちる。命のエキスは吸い上げられているのではなく、流れ落ちている。

@kibakoichi66

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The Circle


さがしていた自由はもうないのさ 本当の真実はもうないのさ もう僕は見つけに行かない もう僕は探しに行かない 時間のムダだと気づいたのさ 今までのようには悲しまない 今までのようには叫ばない 今までのようには踊らない 今までのようには迷わない 今までのようにはあせったりしない 今までのようにはドジったりしない 今までのようにはふり向かない 今までのようには雨に打たれない さがしていた自由はもうないのさ 本当の真実はもうないのさ もう僕は見つけに行かない もう僕は探しに行かない 時間のムダだと気づいたのさ 今までのようには争わない 今までのようには暴れたりしない 今までのようには地図にたよらない 今までのようにはカギを使わない 今までのようには隠れたりしない 今までのようには逃げ回らない 今までのようには壁を叩かない 今までのようには傷つかない 君を愛してゆく 今までのように君を愛してゆく 今までのように君を愛してゆく Like the way I used to be
少しだけやり方を変えてみるのさ

       The Circle/佐野元春


西欧精神とは『肉食』の思想であり、肉食の思想には『強烈な断絶論理』がその根底にある。

銀食器

昔のヨーロッパでの穀物生産の低さは目を覆わんばかりだった。9世紀の資料では、極端な場合小麦の生産効率は播種量の1・7倍、つまり播いた種の量の70%しか食べることができなかった。14世紀には播種量の3~4倍、19世紀はじめでも一部地域を除けば5~6倍である(因みに僧侶までが普通に肉食していた1900年当時のダライラマ13世頃のチベットは播種量の4倍程度である)。日本では徳川時代でも平均で播種量の30~40倍の米の収穫があったというから、いかにヨーロッパが穀物生産に適していないかが分かるだろう。一方で、ヨーロッパの気候は牧草に適している。それ以上に家畜の飼育に重要な、日本に比べて人口一人当たり5倍から10倍の広大な農業用地が欧州にはあった。氷河に表土を抉り取られた耕作には適さない痩せた広大なヨーロッパの農地では、食料としての家畜の飼育は当然な結果である。日本人とは逆に、ヨーロッパ人にとって穀物食は御馳走(贅沢品)で、領主に対する年貢も小麦ではなく家畜の場合が多かった。

西欧精神とは『肉食』の思想であり、肉食の思想には『強烈な断絶論理』がその根底にある。『人と動物』、『人と自然』、『人と神』を断絶することによって、形作られたのが西欧精神、キリスト教精神(一神教精神)であり、哲学的には、主体と客体、肉体と精神、彼岸と此岸などの相互に対立(並立)する『二元論』な考え方である。その一神教的な世界観から、人間中心主義が生まれ、其処から派生した人道主義、個人主義的な民主主義思想、そして遂には近代科学文明をも誕生させていく。日常的に家畜を食する西欧人にとって、宗教的にも思想的にも、人と動物を断絶する根拠と理論が何よりも必要で、そうしなければ日々を共に暮らす動物たちを殺して食する肉食中心の西欧文化は生まれ得なかったかも知れない。

西洋社会では飼育が困難になった愛犬は殺す。日本は殺さないが、(殺せないので)仕方なく捨てる。一方の欧米人は愛するものに『惨めな生』を与えまいとし、他方の日本人は愛するものに『残虐な死』を与えまいとする。ここには家畜を日常的に食ってきた民族と、食ってこなかった民族の『生と死』に関する明確な思考方法の『違い』がある。これは人間の尊厳死や安楽死にも及ぶ考え方で、人間の宗教観をも形づくっていると考えられる。自分の犬に『惨めな生』を与えない愛は『愛犬を人に渡したくないから殺す』愛にも転嫁する。他の生命を100%自己の所有物と見て殉死を求める絶対君主の思想にも近く、これは別れ話がでた恋人を殺してしまう男の考え方にも近い。欧州の氷河で削られた痩せた風土を背景に『自分が捨てたら、この犬はもう生きて行けない。』と考えた可能性もある。

和辻哲郎が『風土』の中で喝破したように、ヨーロッパの大地は確かに冷涼で牧草は育つが稲は育たない。人々は家畜を飼って寒い冬を生きる。家畜は文字どおりlivestockで『生きている保存食』である。最も身近にいる生命を食い潰さなければ生きられない社会は『人間だけは神に選ばれたものであり、他の動物は人間に食われるために存在する。』と言う考え方を受入れないと生きていけない。そこにキリスト教が受入れられた素地があり、『自分がいかに動物から遠い存在であるか』を常に考える発想がある。動物と人間の間に段階的に幾つかの概念を設定する必要が生まれ、身分や階級差を生む『違いを探す』発想が育った。ここから『地球は自分達の物』との確信が生まれ、欧米人による植民地獲得が正当化される。一方、自分の犬を『殺せない』愛は、『犬には犬の人生があり』これを自分が奪ってはいけないとする考え方である。これは対象との共通点を探す、人格(犬格)尊重の思考でもある。また『自分が捨てても何とか生きて行くだろう』と考える温暖湿潤気候を背景にした楽観的な思考でもある。日本人にとっては牛や馬は一緒に働く仲間であり、そこからは共生や輪廻の思想、多様な価値観の共存する多神教などが生まれやすい。

肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見

世界の抽象化は馬上で行われたのかも知れない。

馬

現代の金融資本家を作ったのは馬の存在だと思う。

馬に跨がり何百世代を生きてきた遊牧の人々は、地を歩く人間よりも目線の位置がはるかに高い。世界の見え方がまるで違う。動物と人間が同じレイヤー上の生き物に見えるため、同じテクニックで管理しようという発想を容易く抱ける。また馬を乗り降りすることで世界のステージを移動できる。

世界の抽象化はもしかすると馬上で行われたのかも知れない。

「アラビアには馬はいない、ラクダが馬を見ると怒りだしたり、暴れたりするから、遊牧民は馬を使わない(ヘロドトス)」砂漠の遊牧民は最初にロバ → 次に駱駝 → 馬を使う。アジアの高原地帯には馬はいたけど駱駝はいなかった。目線の位置は砂漠の民が一番高い。そして目線の位置が高いほど、その住環境は、貧しく苛烈だ。

「(デカルトの『我思う、故に我あり』という個人主義的人間観に対して)この立場は、世間から離脱し、すべてをただ観照する、という態度を取ることにほか ならぬ。それは人工的・抽象的に作り出される立場である。人間関係から己れを切り放すことによって自我を独立させる立場である」和辻哲郎

抽象的になればなるほど人として自閉することができ、現実世界において躊躇なく力を振るうことできる。 ゲームの世界に身を投じれば投じるほど、リアルを制圧することができる、というパラドックス。

古代の戦争において、馬が新しいテクノロジーの発達と切り離せないものであったなら、蒸気機関、ガソリンエンジン、原子炉と「新しい馬」に乗り替えていく歴史の中で、遊牧の民の末裔=金融資本家の世界を見渡す視点の位置は、どんどん高くなっていったのだろう。「馬」の手綱は貨幣システムだ。今は抽象化が進んで数字になってる。

馬上の者ならずば人ではなし、か。