Kのブログ

~テキスト倉庫と日記~

「言葉を超えたものは、それがリアルに経験される場合、言葉を否定するとともに、言葉に溢れる」

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周知のようにトマス(アクィナス)の『神学大全』は未完であり、トマス自身が筆を折ることによって途絶した。全精力を傾けて『神学大全』第三部の完成に専念していたトマスは、1273年12月6日の朝、聖ニコラウスの祝日、いつものように礼拝堂でミサをささげた。そのミサの間に何か決定的なことが起こったに違いない。ミサの後、それまで寸暇を惜しんで続けてきた著作の筆を投げ、書くことも口述することもいっさい止めたのである。

秘書が著作の続行をしきりに勧めても、トマスはただ「私にはもうできない」と繰り返すばかりであった。更に勧めると彼は最後に「兄弟よ、私はもうできない。大変なものを見てしまった。それに較べれば、私がこれまで書いたものは、わらくずのように思われる。私は自分の仕事を終えて、ただ終わりの日を待つばかりだ」と答えたという。このようにしてトマスは突然、一切の教授、著作活動を停止した(そして翌年の3月7日に没した)。

沈黙せしめる当のものが、沈黙せしめるという仕方で現前してきたそのあり様は、神学的に言うならば「超存在」に他ならない。しかし、そう言ってしまうと既に概念であって、存在を超過するものが現れるときは、超存在という概念組織そのものを突き破って現前するであろう。概念組織はちょうど、立体が平面図に写し取られたようなものと言える。当の立体が現成するときは、その平面図を突き破って現れる。

この例えに即してもうひとつ、考えておきたいことがある。思想世界が「わらくず」のように見えながら、それがわかっていながら、かえってその(立体的な)経験に裏打ちされて、ふたたび平面的な思想世界を投企する、ということもあり得るのではないか。平面図しか知らないあり方においてではなく、立体の自己投与、立体の一部をなすもの(断面としての平面)として。

エックハルトは当の説教そのものにおいて、神も魂もともに言葉によっては捉えられないことを繰り返し強調している。「説きえない」と説き、「沈黙せよ」というその矛盾の緊張によって、説教の話体が決定されている。

神の言(ことば)は「一(いつ)」そのものであり、不可分なる「一」自体は、「二」すなわち神がり被造物があり、主があり客があり、主語があり述語がある「二」の世界には、その根源性のままに移し入れることができない。

語りえないということを語るとは、平面的になれば自家撞着であろう。しかし、ここにこそ、何としても言い得ないものを、何とかして言い表さんとする、そして言われたことを再び沈黙へと取り消そうとする、言葉への神秘主義の二重の苦闘を見ることができる。

言葉を超えたものは、それがリアルに経験される場合、言葉を否定するとともに、言葉に溢れる。そしてそのような事態そのものが再び言葉において歩湧現され、エックハルトの説教の語体と語彙が特色づけられてくる。

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「我を失くす」「弱める」ということは、脳神経の時間補正を受けた情報世界=「おはなし」を突き破り、言語が機能しない脳外の世界に接触することだと俺は思う。

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我とは、個人的なものではなくて、集合的なところで生まれるものだ。言語(文字や言葉でなくてもいい)を使ってコミュニケーションできる生物が、2つ以上集まると我は生じる。荒野に1つ、1匹、1人なら、我は生じない(生じようがない)。また、言語を持たない生き物が何百集まっても、我は生じない。

であれば、言語と自分を切り離すことができれば、我は生じない、ということになる。個でありながら全体であるとは、言語から自分を引き剥がすということ、「言葉は自分ではない」「思考は自分ではない」「概念は自分ではない」と、つねに切り分け続けていくことだ。そういうことは訓練(いわゆる宗教的な修行)を積み重ねることでできそうな気がする。でもひとつ引っかかることがある。

もしも「知ること」イコール「あること」であるなら、言語を存在から引き剥がす、なんてことが果たして可能だろうか。

エックハルトは「存在よりも知性が上だ、知性を持って認識することが、イコールで神だ」と、ある時期に語る。これを読んだとき強い違和感を覚えた。「知ること」と「あること」はイコールだ、という感覚が自分の中にあったからだ。しかし、よくよく感覚の働きを自分に問うて確かめてみると、「自分がいる」ということを知る働きが、まず先に合り、そののち自分が「ある」。認識する働きの方が存在の前にある、と体は確かに感覚している。しかし同時に何かうさんくさい触感も上がってる。奥に別の構造がもうひとつあるように思えてならない。

【ガザニガの分離脳患者の実験】
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てんかんの治療で脳梁切られ、右脳と左脳が分離された状態になっている人がいる。その人の左耳に「歩いて」と言うと、言われたとおりにその人が歩く。その後、右耳に「なぜ歩いたの?」と訊いてみると、「ジュースを買うため」という作り話を答える。

つまり、人間は「なぜ?」と訊かれたときに、たとえ理由が分からなくても(=答えられるだけの経験値や知識を持ってなくても)、過去の記憶や目の前にある状況や情報を材料に使って、辻褄の合った答え=「おはなし」を瞬間的に作り出し、人に語って、自分も信じる、という行動を、日常的に無自覚にしている。

脳が無自覚にしているこの現実認識の編集操作には、コンマ数秒の時間がかかる。認識→編集のタイムラグがゼロコンマ数秒あるわけだけど、脳は時間の感覚を巻き上げることで、この落差を埋めている。つまり俺達が認識しているのはコンマ数秒前の世界だ。しかしすべての人間の脳神経組織が同じ処理をしているために、認識上のタイムラグはゼロとなり、生きていく上で問題は起きない。

しかし「認識が編集されている」という事実そのものは厳然とある。俺達がコンタクトしている「現実」は脳によって編集を施された情報であって、時間的にも空間的にもダイレクトな世界には触れていない。そしてそうであることを、俺達の意識は、隅の方でちゃんと気がついている。

脳に時間を編集されたコンマ数秒後の世界においては、エックハルトが説教の中で語る「知性は存在の上にあり、知性こそが神である」という概念は成り立ち得る。でも脳が時間を巻き上げる前の世界=編集前の世界においては、エックハルトの概念は成立しない。そこでは「知ること」と「あること」が、同じことであり、同時に起きてる。

我の問題に話を戻すと、我に囚われて生きたくない、と考えるとき、問題になるのは、言語機能が、脳が編集する前と後のどっちの世界に属するか、脳に編集される前の認識世界に言語はコンタクトできるのか、ということだ。これを自分の体に確かめてみると「できない、不可能」という答えが瞬間的に返ってくる。言語は、脳に編集される前の世界に接触することはできない。接触すればその時点で言語機能は消滅し、論理や概念は働くことはもちろん、存在することもできなくなる。ラマナ・マハルシが何度も語る「真我に到達することで知性は溶け去る」という話は、きっとそういうことなのだろう。

自我境界線(境界面)は主に言語でできているので、「我を失くす」「弱める」ということは、脳神経の時間補正を受けた情報世界=「おはなし」を突き破り、言語が機能しない脳外の世界に接触することだと俺は思う。ならば、これまでSNS上で俺が書いてきた「言語を自分から引き剥がす」という話は、誤った捉え方であり、そのように考え続けることで、逆に我を強めてしまう可能性が高い。

分離して遠ざかるのではなく、自分の奥へ向かって認識の舌を伸ばしていく。内側に深く潜っていけば、剥がさなくても言語は消えるし、言語の働きが消えるところで自我境界線も消滅する。理屈ではそういうことになる。それが自分にできるかどうかは、試してみないと分からない。晩年のトマス・アクィナスやマイスター・エックハルトやラマナ・マハリシには(おそらく)できてた。不可能でないことだけは確かだ。

「現実を不可能にするものが、現実世界のただ中に出現することによって、腐敗の泥によって固められた現実に穴が開けられ、もう一度組み替えられていく原点になりうる。その新しい現実は、原点と重力の矛盾そのものを活力にするような現実であるだろう」

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富裕な織物職人の息子として生まれたフランチェスコは、貧困無所有の召命に応じ、ただひたすら己を空しくしてキリストに倣う生活に入った。この(清貧、ではなく、単純な)貧困は(彼にとって)神への自由の道に他ならなかった。

一切を捨ててフランチェスコと貧困無所有を共にする兄弟たちが十二人になった時、彼は修道会設立を願い出るためにローマに赴いた。(彼と彼の「小さき兄弟たち」は)明日の食糧をすら貯えることを禁じた。これはまさに、教会が排除し続けてきた「使徒的生活」の異端ではなかったか。(しかし)インノケンティウス三世はそのフランチェスコに教会の門を開き、祝福を与えたのであった。

フランチェスコの「兄弟たち」は驚くほど急激に増えていった。1217年には数千人に達していた。それに従ってフランチェスコ会は、貧困無所有の彼のこころざしとは異なった形態をすでにとりはじめていた。

フランチェスコ自身は1221年にフランチェスコ会から「再出家」し、ごく少数の兄弟たちと共に、単純に極限的貧困無所有を貫き、病苦の後、失明のうちに臨終を迎え、1226年、44歳の地上の生涯を終えた。フランチェスコの徹底的な貧困無所有の実践は、それが福音の心理であるとすれば、中世教会そのものの否定につながるものであった。

1223年1月、教皇ホノリウス三世によって(フランチェスコ会は)修道会として正式に認可されるのであるが、(その会は)フランチェスコの初志からますます遠ざかったもので、教皇庁の強力な指導はそのまま会の強大さにつながっていく。「小さな兄弟たち」は強大な修道会に変質した。「書物や学識は重んぜられるべきではない。知識は人を誇らしめる。しかし愛は徳を育てる」と言い、祈祷書を持つことすら認めようとしなかったフランチェスコの流れから、歴史は高度知識集団としての学派を作り出した。

このような歴史が示すように、教団自身はフランチェスコとは独立に、いわば自動的に展開して行った、あるいは行かざるを得なかった。フランチェスコの徹底した貧困無所有は、教会のみならず現実社会を不可能にするようなものであった。しかし、現実を不可能にするものが現実世界のただ中に出現することによって、それは、いわば腐敗の泥によって固められた現実に穴が開けられ、風が通され、埃を払って、現実からもう一度組み替えられていく原点になりうる。そして現実が組み直されていくとき、再び現実性そのものの重力、それなくしては現実をなさないような質量の重力が動く。そのようにして成立する新しい現実は、原点と重力の矛盾そのものを活力にするような現実であるだろう。

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人類の知的遺産(21)/マイスター・エックハルト(上田閑照)

「神」という言葉をすべて「存在」に入れ替えて読んでみると、エックハルトが教義を通して語っていることが明確になる。

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「自然の主であり給う神は、いかなるものをも空虚のままには置き給わない。空虚を見出し給うならば、ただちに自らを注ぎ込んでそれを充たし給う。お前は、お前の働きを一切停止し、お前自身とすべての被造物を忘れ去り、空にして無にならなければならない。無からよろめき出てはならない。お前がそのように準備がととのっているのを神が見出し給うならば、そのとき、神は御自身をお前の中に注ぎ入れ給わずにはいられない。準備ができていることと注ぎ込むこととは、いかなる遅滞もなくただ一瞬のことである」

「お前はここかしこと神を探す必要はまったくない。神はお前の心の戸口より遠いところに居られるのではない。神はお前が心を開くのを待ちかねて居給うからである。お前が神を求めるよりも千倍も切迫して神はお前を求めて居給う」

「神は常に用意して居給うているが、我々の方が用意ができていないのである。神は我々にまことに近くにおわすが、我々は神から遠く離れている。神は内に居給うが、我々は外に出て異郷に居るのである」

この「神」という言葉をすべて「存在」に入れ替え、謙譲表現を外して読んでみると、エックハルトがキリスト教の教義を通して語っていることが明確になる。

「自然の主である存在(意味や理由から自由になって、ただ純粋に『ある』ということ)は、いかなるものも空虚のままには置いておかない。空虚を見出せば、ただちに自らを注ぎ込んでそれを充たす、お前は、お前の働きを一切停止し、お前自身とすべての(言語によって記号的・抽象的に認識された)『被造物』を忘れ去り、空にして無にならなければならない。無からよろめき出てはならない。お前がそのように準備がととのっているのを存在が見出せば、存在は自分自身をお前の中に注ぎ入れずにはいられない。準備ができていることと、注ぎ込むことは、いかなる遅滞もなくただ一瞬のことだ」

「お前はここか、あそこかと、(自分の)存在(感、生きてここにいる手ごたえ)を探す必要はまったくない。存在はお前の心の戸口にいて、お前が(我によって硬くブロックされた)心を開くのを待ちかねている。お前が存在を求めるより千倍も強く切迫して、存在はお前を求めている」

「存在は常に用意しているが、我々が用意できていない。存在は我々のすぐそばにあるが、我々は存在から(自我に固く守られることによって、ブロックされ)遠く離れている。存在は内側に最初から居るのに、我々は(自分自身の存在感を探して)外に出、異郷にいるのである」

「エックハルトの説教集やラマナ・マハリシの対話集を読んでいると、『神』や『真我』と人間の関係は、魚と水圧の関係によく似てるな、と思ってしまう」

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エックハルトの説教集やラマナ・マハリシの対話集を読んでいると、「神」や「真我」と人間の関係は、魚と水圧の関係によく似てるな、と思ってしまう。人間は我があることによって内圧がすごく高まっているので、水面に上がった深海魚みたいに、中身が外にはみ出すばかりで、「神」や「真我」が入ってこれない。

いわゆる毒親のメンタルが子供に連鎖していくことや、被害者が加害者に成り代わっていくことについても、この情緒的な「水圧」の経験値が大きく影響しているはずだ。まだ自分を持たない幼児の頃に親から受けた情緒的な圧力が、その子にとって自分の境界を形作るための基準となって、人格の存在バランスが深海モードにチューニングされる。そして段階的な「減圧」をしないで家の外の世界に出ると、急に海面に引き上げられて中身がはみ出す深海魚のように、水深の浅い海で暮らしている他の人達に対して、自分が深海でされたのと同じことを無自覚にやってしまう。

現実的な個人の人生であっても、宗教概念の世界であっても、「自分の中味をどうにかする」とか「他人や環境をコントロールしたい」といったことは、あくまで表面的なテーマであって、核心は「内面世界と現実世界の『圧力差』の調整方法」にある。我を棄てる、とか、弱める、っていうのは、自分の内部と外部の圧力差をゼロに近づける、ということだ。

どうしても何かをコントロールしたいなら、自分の内圧をコントロールすることで、自我境界面の浸透圧を上げたり下げたりするのがいい。身を守りたいと思ったときは意識的に我の働きを強めてやり、それ以外のときはゼロに近づけ、内側と外側を圧力をそろえる。これができればまずは相当生きるのが楽でスムースになるはず。

情緒的な内圧を具体的にどうコントロールするかについては、感覚/感情/思考/意志を、完全に一致させた生活をしばらく過ごしてみるしかない。やりたいことだけをして、やりたくないことは本当にしない。怖くなったり、都合が悪くなっても、構わずそれを続けてみる。するとだんだん内圧をコントロールするコツみたいなものが分かってくる。

個人の「感覚-感情」の軸と「思考-意志」の軸のつなぎ目を、みんなして意図的にズラすことで、集団社会のシステムは成立している(軸をズラした部分においては、我慢と金銭の交換が起きてる)。なのでこの軸合わせを進めていくと、その人の社会性と社会生活は、必ず段階的に壊れていく。でもリフォームするには壊さないといけないし、リフォーム後は「この人はこういう人」と周囲もすぐに認めて馴染むので、実は全然問題がない。

エックハルトが説教の中で「独り子になっている人のところに、神はただちに激しく動かされて急行する」と語っている部分を読んで、松村氏が著作や雑記の中で「 下のものは自力で上に上がれない、上からのショックを受けて初めて上に引き上げられる」と繰り返し書いていたのを思い出した。

あるところまで行くと、人はステージの変わり目の「天井」に不意に突き当たってしまって、自力でどれだけ努力をしても、それより上には上がれなくなる。次のステージに上がるためには、上のステージにすでにいる人や組織や状況にコンタクトして、力で引っ張り上げてもらわないといけない。

上位の力に引き上げてもらうには、身軽になっておく必要がある。三途の川を渡るときに持ってるものを叩かれるように、今いるステージで築き上げてきた自分自身だと思っている殆どのものを、エッセンスだけ残して捨てないといけない。でないと上にいる人達が重くて持ち上げられないし、上から受け取る新しいものを収納するためのスペースも確保できない。

我の蓋を開け、自分を軽くし、空き容量を広げることで、上のステージから水流のように勢いよく影響力が流れ込み、その影響に思い切り満たされることで、上位ステージの一部となる。それが「ステージが上がる」ということの本質で、自分の位置が変わるのでなく、自分の中味が入れ替わる。そういう意味では「ステージ」というのは、身を置く環境であると同時に、自分の性質の状態であり、圧力のレベルなのだと思う。

エックハルトが言っている「独り子になっている人のところへ、神はただちに急行する」や「神が自分を突破すると同時に、自分も神を突破する」は、環境と内面の状態を意図的に揃えることだと読めた。